ポンピドゥー・センターの展示へ(閑人亭日録)

 歩いていく範囲に大小いろいろな石碑が立っている。三嶋大社の境内には、入口近くに高さ数メートルの大きな石碑がどーんと立っている。が、通りがかりの参拝客は、何が書かれているのか、おそらく誰もご存じないし、関心もないだろう。かく書いている私も以前は無関心だった。近寄って刻まれた文字を読むと、それは日露戦争戦勝記念碑だった。細かい説明文はまだ読んでいない。ていうかその程度の関心事。まあ、百二十年ほど前の建立だろう。田島志一のいた審美書院の時代だ。このあたりでこの石碑が最も大きいと思われる。しかし、参拝者の関心は無い。石碑の形態が地味で陰気な気配が漂っている。それは戦没者を祀る忠魂碑にも言える。こちらは見た限りでは二メートル足らずのものが多い。これもまた陰気な気配。そりゃそうだ。子どもの頃、母の実家の祖母の、桃沢川を渡った向こう岸にある忠魂碑のお参りについて行ったことがある。じっと拝んでいた祖母の後ろ姿が印象的だった。当時は忠魂碑の意味が分からなかった。息子二人が戦死したと後日知った。
 死者を悼む石碑もあれば先人を思慕する石碑もある。自宅裏手の墓地には松尾芭蕉を弟子たちが追善供養する石碑がある。お墓のかたちなので芭蕉のお墓と思う人がいる。中門の外には高さニメートルほどの長円形の石碑。くるくる回る漢字で難読。「南無阿弥陀仏」と読む。江戸末期、この地方の高名な坊さん唯念(ゆいねん)上人の手になると聞く。
 三嶋大社の戦勝碑の向かい、神池のほとりには若山牧水の歌を刻んだ卵形の小ぶりな石碑がある。これは見逃してしまう。沼津市から三島の花火を見た印象を詠んでいる。
 石碑は、富士山の溶岩がここで止まったことを彫り込んだ江戸時代と思しき石碑から簡易水道の記念碑などいろいろあるが、どれもこれも今は誰の関心も呼ばない。設置した当時は話題だったろうが、代が変われば人の記憶から消えてゆく。
 人の記憶から消えてゆくのは美術作品も同様の運命にある。が、優れた作品は目のある人から人へと大事に伝えられる。冷泉家の古文書のように。または、海外のコレクター、美術館に買われていく。審美書院の美術書で圓山応挙の複製木版画に瞠目した。ネットで調べてみると、大英博物館に収蔵されていた。名画流転、これもか、と残念に思ったが、ワカル人のところに収まってよかった。国境を越えて保存する。それもあり。

 今朝、四十年あまり使っていた障子をすべて取り払い、業者が遮光カーテンとレースカーテンを設置。障子だと陽光が弱い。歳をとったせいか、もっと光を。それに障子紙の張替えを業者に依頼するのが面倒になった。すっきり明るい陽光。美しい。これはいい。これで、もう死ぬまで交換せずに済む。八十五歳まで生きたとして逆算すれば十二年。これからの人生、ゆっくり愉しんで生きなくっちゃ。ゆっくりもしてられない。昼過ぎ、銀行へ行き送金。やれやれ。

 夕方、マンガ家故つりたくにこさんの夫、高橋氏からメール。

《 明日原画五枚Parisに空輸するとの連絡がありました。3人が受取りに来て、1枚づつ検査箱詰め、空港で更に詰め替えるとの事。保険料等を別にして、運賃だけで18万円だそうで、何か私が運びましょうかと言いそうになりました。Pompidouでは公開講義等も始まるようです。2冊目も近く届く予定です。とりあえずのお知らせです、お元気で。 》

 吉報。いよいよポンピドゥー・センターの企画展、マンガ展で展示。元気が出る。新しいカーテンといい、嬉しい一日だ。