汗と涙の苦労の果てについに限界を突破・・・という熱血制作秘話をひけらかす作品には静かに身を引き敬遠するしかない。
北一明の陶芸作品は、どれもが伝統の型枠を軽快に突破している爽快感がある。焼成の苦心苦労の影は、それらからは微塵も感じない。さりげなくそこにある。その突き抜けた新鮮な存在感。そんなことを思ったのは、椹木野衣編集『日本美術全集 第19巻 戦後~1995』小学館の副題「拡張する戦後美術」に何か違和感を感じたせい。拡張とは、何かの領域、枠組みが、戦争によって領土を拡大するように、次第に膨張していくこと。美術というものは、枠組みを壊して拡がるもの(かつ、それによって枠組みの内部が地殻変動を起こす)ではないか、という気がする。これは私的見解。昨日触れた日本の陶芸作品に感じる枠組みの拡大は、伝統の保守~衰退に通じる。私の惹かれる=瞠目する美術作品は、そんな枠組みなんぞ無かったように、さりげなくそこにある作品。
北一明『あ伝統統美への反逆』三一書房1982年3月31日 第1版第1刷発行を開く。
《 現代の焼きものの問題点として、焼きものの美の頂点と言われている中国宋時代の曜変天目、砧(きぬた)青磁など、優れた作品を上まわる突破口は何かという関心事についてふれれば(曜変天目については、従来までその生成原因が不明とされていた)、それは一番の確実な道として釉調であるといえる(釉薬による技術上の至難な色調)。つまりその根拠は、宋代より科学的にも著しい発展、発達をとげている現代という意味あいにおいてである。
ところが現実には、中国のこの時代の窯は国を挙げての仕事であったために非常に高いレベルの焼きものであって、現在世界第一級のレベルにあるといわれる日本の窯業も、個々の作品についてみる場合、宋窯よりはるかに格調の低い焼きものであることは衆目の一致するところなのである。陶芸史、陶磁史は、残念ながら過去千年、底辺のレベルは前進しながらも、歴史は停滞し、先端は進歩、発展していないのであり、しかも宋窯よりもはるかに後進的なのである。 》 「第二章 新しい原点とは何か」 177-178頁
四十年あまり前、北一明は実作者の立場からはっきりと発言していた。私は市井の一愛好家。北一明の茶盌を鑑賞して思う。