精神病理学教室

 石上玄一郎精神病理学教室」(1943年)を再読。第三文明社レグルス文庫1980年刊の『精神病理学教室』で読んだのだけれど、「あとがき」によると東大の精神病理学教室に勤めていた友人から作品の素材を得たという。小説内容は、若い医者が、亡くなったばかりの精神病患者の解剖をして、気が狂ってしまうもの。

≪一瞬、真暗な深淵が彼の足もとに口をあけて奈落の底をのぞかせた。彼はそこに死の姿をみた。それはなにもない暗澹たる空虚であった。彼は突きのめされたように思わずよろよろとよろめいた。≫

≪そしてふたたび目ざめたとき不幸にも彼の頭蓋のなかには暗い暴風が吹きすさびその眼からはもはや尋常な光が失われてしまっていた。≫

 戦時中の「精神病理学教室」から敗戦後の「自殺案内者」へ。八年ほどの間の暴風のような変転が、そこに横たわっている。併録の「春の祭典」の舞台は敗戦後の東京。

≪彼は青年らしい自負をもって、自分を他と隔絶した存在、択ばれた者と感じていたのだ。≫

 いつの時代も変わらない青年たち。そのまんま大人になった人たち。

≪純文学と聞くとなぜか純喫茶を思い浮かべてしまう私は昭和の女。≫

 と、某ウェブサイトにあったけど、昭和十八年の純文学「精神病理学教室」は、平成の今ではホラー小説として読まれるかも。解剖という言葉からはホラー小説を連想するかもしれないけど、明治の純文学、三島霜川(そうせん)「解剖室」は純愛小説の部類。