絶頂美術館・つづき

 午後になってやっと雨。梅雨空に。

《 これは、水墨画に代表される「余白の美」になじんだ東洋人には、なかなか理解できない感覚なのだが、ともかく画面を埋め尽くすことで成立していたヨーロッパ絵画の伝統にとっては、余白は未完の証でしかなかった。白は、絵画芸術にとっては一種のタブーとさえ考えられていたのである。 》 「第十章 挑発のカメラ目線」

《 「デザインとは余白を作ることだ。」 》 装丁作家・天野誠

 ネットでは上記の言葉に出合う。彼我の深い溝。そして私の視点「余白・空白・虚空」あるいは「余白・空白・飛白」。

 昨日買った中野京子『怖い絵 死と乙女篇』角川文庫に「カバネル『ヴーナスの誕生』」の章。

《 オールドマスター(古典絵画)のヌードには、古色蒼然たる時代のワンクッションが置かれたから、さほどにも感じられなかったはずだが、カバネルに追随する現代自国作家たちの描くヌードは、まさに「我らが裸体」、正確には「我らが夢の裸体」であった。 》

 自国画家とはイギリスの画家のこと。

《 現代は、常時つるぴかヌードに侵されているといっていい。しかもなぜか腋毛はだめなのに、ヘアは存在を許されるという奇妙な形で。》

《 カバネルのヴィーナス同様、もはやどこにもリアルはないのだ。にもかかわらず、夢の裸体は存在を主張してやまず、我々は呪縛され続けている。 》

 西岡文彦『絶頂美術館  名画に隠されたエロス』新潮文庫のカバネルのヴィーナスの章と読み比べると面白い。中野京子はてきぱきした文章、西岡文彦はしなやかな文章。この深い溝。

 ついでに。『怖い絵 死と乙女篇』、アーティスト・村上隆の解説が目を惹いた。

《 我々も愛憎と嫉妬心をどのようにチューニングして作品を生み出せば、お客様に喜んでもらえ、作品を購入していただけるか──。そういうことを常に考えて、チャレンジしながら創作活動を続けているので。 》

 26日の毎日新聞「今週の本棚」を流していて目に留まった、大崎滋生(しげみ)『20世紀のシンフォニー』平凡社の記事。

《 そもそも今日に名が残るのは、「優れていた」というよりも「後世に関心をもたれた」作曲家たちなのだ。 》

 昨日の以下の引用につながる。

《 真の芸術は時代を経れば必ず認められる、という話では、これは決してない。 》 「第十章 挑発のカメラ目線」

 ネットの拾いもの。

《 東京メトロのCMを見て「ミスしたあとに築地で海鮮丼奢ってくれる上司なんていない」とお嘆きの女性と「堀北真希みたいな部下がいたら海鮮丼なんて毎日おごる」という、男性との間の溝。 》

《 やっと口座開いたんで、アベノミクスとかいう銘柄検索してるのになんで出てこないん? 》