『私とはなにか』

 高知県やなせたかし記念館から寄贈依頼の本を段ボール箱に詰めて宅配便で送る。サンリオから出ていた、たやなせたかし編集の雑誌『イラストレ』や『詩メルヘン』増刊の『やなせたかしの世界』1975年、『やなせたかしの世界』1991年などなど。コンビニから送る前にブックオフ長泉店へ寄る。石田仁志ほか『横光利一の文学世界』翰林書房2006年初版帯付、古井由吉『山に彷徨う心』アリアドネ企画1996年初版帯付、計210円。
 午後頼まれ用事が済んで沼津市マルサン書店へ。雑誌『美術の窓』11月号297貢掲載、白砂勝敏氏の新作木彫作品(新制作展)の評を読む。行間にかすかな戸惑い(想定外の作品)を感じる。次ページにある知人の鉄の作品評は、手馴れた評文。ついでにソログープ『かくれんぼ・毒の園』岩波文庫2013年3月15日初版693円を購入。これで八月二三日に西荻窪の盛林堂から出た『いい香のする名前 ソログーブ童話集』と対になった。この解説にはこんな一文。

《 つまり、盛林堂ミステリアス文庫と、岩波文庫あわせると、ソログーブによる昏い童話(ダークファンタジー)の一群が、約八十年ぶりに乾坤対をなしたのである。 》

 岩波文庫ではソログープ、盛林堂版ではソログーブ。プとブ。

 上田閑照(しずてる)『私とはなにか』岩波新書2000年初版を三分の二ほど読んだ。今日中に終えるはずだったが、易しい文章だけれども一読での理解は困難な内容に遅れる。しかし、世界が開かれ、ワクワクする。

《 あるとき、「私」という「無いもの」を忘れていた「私」という「有るもの」に「私」という「無いもの」がまたまた突然現れ、風のように、「私」という「有るもの」を吹き冷ました。すると、それまでのことがきれいに吹き消されて、「私」という「無いもの」と「私」という「有るもの」との、今はじめてであるかのような出会いがはじまった。 》 29頁

《 「私」とは形式的には自己同一的に「私は私である」ということであるが、人間主体が現にそして真実に「私」と言うとき、「私は私である」と平板連続的にではなく、「私は(と自分に返って)、私ならずして(と自分に閉じようとする傾向を否定して、他者とともに在る場所に開かれ、相手に向かって)、私です」ということとして成立する。すなわち「私は、私ならずして、私である」。これが「私」ということである。 》 32頁

 ここまで理解、納得するまでに一寝入りして、頭を冷やした。冷や冷や。

《 「我は我なり」は「我」への粘着であるが、無内容な自己同一であるゆえに、「我」に執着すればするほど、どこまでも所有をもって「我は我なり」を満たそうとする。いわゆる所有を、「我」の「有るところ(存在)」にしようとする。物の所有だけではなく、「我は何々である」というように「我」の有を飾る資格も所有である。このように所有を自分の有とする「我」は、持てるものはどこまでも放すまいとし、持たざるものはあくまでも得ようとする。 》 41頁

 片山広子松村みね子)の短歌が紹介され、論じられている。その歌と論の結び。

《  待つといふ一つのこと教へられわれ髪白き老に入るなり  》 73頁

《 来し方を顧み、死までの行く末を見定めて、一生としての「われ」の自覚である一行自伝と言えるであろう。 》 75頁

 ネットの見聞

《 浜岡原発1、2号機の廃炉作業が始まっているが、廃炉で出る放射性廃棄物の処分場はまだない。放射能の強さ別に3段階の放射性廃棄物が出るが、どれもない。これはよく言われる高レベル廃棄物の処分場問題とはまた別の懸案。安倍首相はこの難問も解決する覚悟があるのか。 》 Masashi SUZUKI

 ネットの拾いもの。

《 レアチーズケーキは珍しいチーズケーキではありません。 》