『ヌード写真』

 出版関連のウェブサイトでは毎日、こんなすごい本が出ます、出ました、話題(沸騰)の、といった美辞麗句な書き込みがあふれている。あれもこれもまずは本を手にして確認したいが、近所の本屋にはまわってこない。出版社や熱帯雨林で画像を眺めているだけ。そのうちブックオグの半額棚に並ぶものも少しある。105円棚に零落してから掬いあげるのは、そのなかのまた少し。歳月にふるい落とされて手にされる本だけを買う。そんな一冊、多木浩二『ヌード写真』岩波新書1992年初版を読んだ。

 鮮やかな分析でじつに刺激的だった。靄ってぼんやりとしていた視界が鮮明に開けた感じだ。性の欲望の対象(視姦)としてのヌード写真(ポルノグラフィ)から最近の変容までを社会との関わりで鋭く読み解く。

《 だがそうした「過剰」はなにもヌード写真だけのことではない。「過剰」こそわれわれの現代社会の根本をなす力の現象形態である。 》 10頁

《 私は風俗史に興味はないが、人間にとって根本的な「性」についての言説が時代によって変化し、また公に許容される限度も可変的であるということが、社会にとって本質的であるという事実には関心がある。 》 29頁

《 羞恥心とは文化のカテゴリーであり、それぞれの社会の歴史的現実を生きる人間に染み込んで、その行動の隅々まで支配してきたものであり、その社会の外からは分からないもの少なくないということである。 》 34頁

《 このあたらしい力の布置と古いイメージ(言説内容)の違和、パラドクスとしてヌード写真をめぐるさまざまな現象が生じているのである。 》 112頁

《 このパラドクスを見損なわないようにしよう。つまりこの社会的な欲望の「過剰と拡散のゲーム」は、古い力の残存にもかかわらず、性的欲望を性器に固着させていくこととは別のことを引き起こしているのである。 》 112頁

《 もはや実の身体のもつ性的欲望がどうであるか、真の肉体がどうであるかという点からヌード写真を考えるのではない。ヌード写真は、どのくらい深く性を読みとく比喩の手がかりがあるか、その条件を用意するものになる。 》 116頁

 明日につづく。

 ネットの見聞。

 アマゾンの「オールタイムベスト100小説]」。読んだ本は21作品。持っている本は50冊。
http://www.amazon.co.jp/gp/feature.html/ref=amb_link_68554489_1/376-6278481-6676828?ie=UTF8&docId=3077738486&pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_s=hero-quick-promo&pf_rd_r=01XMKSC3ADH92N62JRYT&pf_rd_t=201&pf_rd_p=151746229&pf_rd_i=4093863350
 イギリスのガーディアンが同じようだが、壮大なオールタイム古典100小説「 The 100 greatest novels of all time 」をやっている。セルバンテスドン・キホーテ』から二十世紀後半まで。

 日本関係で選ばれたのはカズオ・イシグロ浮世の画家』中公文庫だけ。ミステリ関係ではメアリ・シェリー『フランケンシュタイン』、ウィルキー・コリンズ『白衣の女』、レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』、ジェイムズ・エルロイ『LAコンフィデンシャル』くらいか。『37. The Riddle of the Sands 』Erskine Childers は邦訳された記憶があるけれど、確認に至らず。英米仏が主で、アイルランド、ロシア、ドイツ、イタリア、スペイン、チェコ、コロンビア、ナイジェリアなど。『62. Wise Blood 』Flannery O'Connor には驚いた。フラナリー・オコナー『賢い血』ちくま文庫だ。知らない作家、作品も当然ある。「 Who did we miss? 」とあるので、一つ。トーマス・マンがない(と思う)。読んだ小説は9作品。持っている本は……数えるのを忘れた。
http://www.theguardian.com/books/2003/oct/12/features.fiction
 ネットの拾いもの。

《 「いい子」って言葉は誉める時に使われるけど、「いい大人」って言葉は叱る時に使われるなあ。 》