「現代絵画入門」

 昨晩沼津市の知人女性から電話。「田村セツ子さんて知っている?」「もちろん。 四十年前のサンリオ・ギフト文庫(幸福の花束)を持ってるよ」「今、田村さんと 飲んでるの。楽しい人ね」
 田村セツコさんの絵は商業美術に大別されるのだろう。すなわち企業の注文に 応じて絵を描き、それが印刷されて商品(作品)として流通する。それに対して、 非商業美術がある。自分で絵を描き、商品(作品)として例えば画廊で売る。非 商業美術ではなんかカッコ悪いのか、商業美術(コマーシャル・アート)に対して 純粋美術(ファイン・アート)と自称する。さらにカッコつけて前衛芸術(アヴア ンギャルド・アート)、そして現代美術(コンテンポラリー・アート)とも呼ぶ。 商業美術は注文という制限があるが、非商業美術は制限無し。よって何でもありの 様相を帯びる。誰もやらなかったことを、と芸術家は意気込む。

 山梨俊夫『現代絵画入門』中公新書1999年初版を読んだ。現代美術ではなく現代 絵画。範囲を絞っているところがうまい。あるいは面倒を避けている。

《 家は絵画であり、樹木や岩山は画家が絵画の外に見るもの、木や石は絵画のた めに加工され絵画そのものを組み立てる素材なのである。
  ブラックの絵では、描かれるものと描かれたものとの関係はそのようにある。 そうして組み立てられた絵画は、材料をむきだしの形で見せ、その露骨さを構造の 強さとする。だから絵画は、素材の物質性を自らのものと抱えきこみ、絵画自体の 全体が物質として存在することを明白にする。 》 41頁

《 ブラックにとっての絵画は、画家との関係で言えば、再現する役割から離れて 自在に画家の操作がほどこされ、描く対象をどう解釈し、どう自分の内部を通過さ せたかを具体的に示していく場となる。 》 44-45頁

 安藤信哉の絵への拙論を連想。
 http://web.thn.jp/kbi/ando10.htm

《 西洋アカデミズムの習得から出発した安藤信哉氏は、絵画世界に西欧的「自由」 の構造 から日本的「自在」の構造へ至る一本の強固な橋を構築したのでした。 》

《 その絵画では、対象は対象としてそこに確固として在りながら、そのかたちと 色調は解釈に固定される手前の、瑞々しい感興のままに見事に引き出され、自在に 再構成されています。 》

 出発はブラックと重なるが、安藤信哉はずいぶん離れたところへ到達した。

《 しかし、たとえば「レディ・メイド」にしろ、『彼女の独身者たちによって裸 にされた花嫁、さえも(大ガラス)』にしろ、いわゆる「反芸術」的な志向を伴っ て既成の美術形式を壊し新たな「作品」をつくろうとするとき、それは美術、ない し芸術の領域を広げようとする操作とはなっても、そこを抜けだすことはなく回収 されてしまい、新たな「作品」もすぐさま美術の範疇に組みこまれる。 》 75-76 頁

《 その意味で、デュシャンの行ったことは、視覚優位の美術に抗うと同時に、二 〇世紀美術の特質となる、美術が美術自体を問いながら自らを成立させていくとい う仕組みに加担するのである。単に加担するどころではなく、むしろ彼の試行は、 そういう方向を大きく切り開いて、のちの世代にさまざまな啓示を与えもした。 》  77頁

 下記に重なるなあ。

《 戦後の過剰な消費社会では、市場のシステムから逸脱した場所で自然発生的に 出現したファッションは、それがシステムに対して否定的な力を持つがゆえに、 システムに回収されるというパラドックスがたびたび出現した。システムから逸脱 した、あるいはシステムに対抗するファッションは、硬直したシステムを活性化す る力を持っている。システムは自らを更新し延命させる力として、そうしたファッ ションをしたたかに取り込んできた。 》 柏木博『ファッションの20世紀』167頁

《 リアリズムが個の解釈にゆだねられる。あるいは、リアリズムは、ひとつに定 まった方式ではなく、現実と実質的に連なることを目的とした個人的な方法となった。  》 140頁

《 その質の判断は、方式の外見ではなく、現実との連関の有効さにある。だが、 その多様さのうちでも、あたりまえの視像の有効性はどこにも見当たらない。 》  140頁

 北一明のデスマスク、デスヘッドを思う。私の考えを補強するような言説が散見 されて、ちょっとうれしい。では、これからどんな絵画が生まれるか? といった 未来予測は語られなかった。まあ、そうだろうが。私の予測は筆触を含めた生きた 線と色面の復活。

 ネットのうなずき。

《 「4Kテレビ」ってのも凄いネーミングだなあ。もう、ネーミングによる商売 なんて考えないってことか。 》 藤岡真

 ネットの見聞。

《 マッチ擦るつかの間の海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや  ある訳ね ーよな。集団に命を懸けることを是とする倒錯はどこからきたのだろう。進化論的 に解釈可能な行動なのか、それとも権力者の陰謀なのか。 》 池田清彦

 寺山修司の有名な短歌だが、「つかの間海に霧ふかし」が正しい。「つかの間の」 ではなく「つかの間」。検索すると有名人も間違えていた。あれれ。

《 結婚して改めて「気持ちや出来事は、相手の聞いてくれる形の言葉にして伝え なければ絶対に伝わらない」と確信した。「どうして分かってくれないの!?」は 完全に捨てた(たまに現れるが)。最初っから「言わなきゃ分からない」と腹を括 れば、「じゃあどう言うか、どこまで言うか」と考える気にもなる。 》

 ネットの拾いもの。

《 今、あたしは何をしにパソの前に来たんだっけ? 》