「日本近代文学の起源」後半

《 これまでにもくりかえし述べたように、私は「文学史」を対象と しているのではなく、「文学」の起源を対象としている。 》 138頁

《 つまり結核菌は結核の「原因」ではない。ほとんどすべての人間が、 結核菌やその他の微生物病原体の感染をうける。われわれは微生物と ともに生きているのであって、むしろそれがなければ消化もできないし、 生きていけない。体内に病原体がいることと、発病することとはまったく べつである。西洋の十六世紀から十九世紀にかけて結核が蔓延したことは、 けっして結核菌のせいではないのだし、それが減少したのは必ずしも 医学の発達のおかげではない。それでは何が原因なのかと問うてはなら ない。もともと一つの「原因」を確定しようとする思想こそが、神学・ 形而上学なのである。 》 142-143頁

《 児童が客観的に存在していることは誰にとっても自明のように みえる。しかし、われわれがみているような「児童」はごく近年に 発見され形成されたものでしかない。たとえば、われわれにとって 風景は眼前に疑いなく存在する。しかし、それが「風景」として見出 されたのは、明治二十年代に、それまでの外界を拒絶するような「 内面性」をもった文学者によってである。それ以後、「風景」は あたかも客観的に実在し、それを写すことがリアリズムであるかの ようにみなされる。あるいは、ひとはさらに「真の風景」をとらえ ようとする。しかし、そのような「風景」はかつては存在しなかった のであり、それは一つの転倒のなかで発見されたのである。 》  157-158頁

《 つまり、表現さるべき「内面」や「自己」がアプリオリにある のではなく、それは「言文一致」という一つの物質的形式の確立に おいて、はじめて自明のものとしてあらわれたのである。かつて のべたように、「言文一致」とは、言を文にうつすことではなく、 もう一つの文語の創出にほかならなかった。 》 159頁

 「風景の発見」「内面の発見「告白という制度」「病という意味」 「児童の発見」そして最終章「構成力について」。最終章はさらに ワクワクするが、最も手強い。安易には読み過ごせない。引用も 難しい。理解したつもりになってはいけない。再読して図らずも 前回の浅い読みを痛く知ってしまった。再び読む必要を感じる。ああ、 オツムの違いを実感。違いはワカル。

 昨日はジャズファンならまず知っている、歌手ビリー・ホリディと サックス奏者ジョン・コルトレーンの命日だった。昨夜二人の音楽を、 と過ぎったけれど、その気にならず。今月は音楽をほとんど聴いて いない。ネット注文で届いたアルジェリアの音楽も一曲聴いたのみ。 聴く気にならない。先だって音楽好きな知人と語らったけど、これだ、 という音楽がないねえ、で一致。もっぱら古い音楽を聴いている、と彼。

 ブックオフもこのところ夏枯れ。曇天なので昼前、ブックオフ三島 徳倉店へ自転車で行く。前田英樹『絵画の二〇世紀』NHKブックス 2004年初版帯付、赤城毅『書物法廷 ル・トリビュナル』講談社文庫 2013年初版、東直己『鈴蘭』ハルキ文庫2013年初版、石川三千花 『ラブシーンの掟』文春文庫2007年初版、吉村達也『読書(よみかき) 村の殺人』中公文庫1996年初版、計540円。気分落ち着く。

 ネットの見聞。

《 日本では安らかな寝息をたてている人が大半のこの時間に、 世界が激動している。 》

《 世の中は「だんだん悪くなっている」のか、「今が底」なのか。 僕はできるだけ「今が底」だと考えるようにしています。そうでも しないと、やってられません。 》

《 文科省を廃省すれば日本の教育は多少ましになると前から言っ てますが、まあ無理でしょうね。 》 池田清彦

《 安倍さんの政治哲学:「国民は馬鹿である」
  1.ものすごく怒っていても、時間が経てば忘れる
  2.他にテーマを与えれば、気がそれる
  3.嘘でも繰り返し断定口調で叫べば信じてしまう
  私たちは、そんなに馬鹿なのでしょうか?
  18日金曜日報道ステーションに出演します。 》 古賀茂明

 ネットの拾いもの。

《 せっかく買った牛肉をスーパーに忘れてきた。 「ロストビーフ」だ。 》