「 日本の伝統 」つづき

 岡本太郎『日本の伝統』光文社知恵の森文庫2006年2刷、後半「中世の庭」もまた じつに刺激的だ。

《 芸術は根源的な矛盾を秘めています。その緊張した統合のうえに、強烈な表情を かがやかせるのです。矛盾した要素の対立は芸術の本質であり、根本要素です。 とかく、ほどよい趣味とか、好みの洗練と混同されがちですが、芸術はそれとは まったく質と次元を異にしているのです。これを見あやまってはなりません。 》 183頁

 竜安寺の石庭について。

《 大きな自然を対置し、それを反対極として取りいれることによって、この ひねこびた石は、それら自体が持ちあわせているよりもはるかに大きなスケールを になわされ、闊然とひらけ、逆に生かされてくる。 》 216頁

《 だいたい、本来の目的をうしなって投げ出されたものというのは不可思議であり、 一種の魅力を持っています。これはたしかです。 》 218

 鉄でできた歯車、ドリルの先端部、一回りした鉄管……などなど、ワカル、ワカル。

《 彼我(ひが)が無性格であり、ともにそれだけでは見ごたえがない。だが中景の空の 媒介によって、双方が本質的に対決し、渾然と新しい次元に統一されるとき、はじめて驚異的な 性格・風貌が打ちだされるのです。──すぐれた芸術のばあい、材料自体は、なんでもない、 むしろ平凡なものであることが多い。それらが創造者の芸術的な置きかえによって、 ただごとでない性格を輝かしはじめるのです。そこに凄み、感動がある。 》 219頁

《 一線に区切った──とたんに自然は自然として、人工は人工として、実は実として、虚は 虚として、二つの対立極は相互に高度な緊張をおびてはたらきかけ、そのあいだに火花を ちらすのです。 》 220-221頁

 三島市南端、沼津市との境界をつくる松毛川(沼津市側は灰塚川)南側(三島市)の 密生した放置竹林が伐採され、見通しがきくようになった河畔林から見える真っ白い富士山。 この前面に何かアート作品を仮設置したくなる。ワクワク。

《 本質的な哲学の欠如のうえに、しかし技術だけは驚異的に洗練されている。たしかに よい好みであり、味はある。しかし絶望的です。(これはわが国の他の芸術部門についても、 同様にあてはまることですが。) 233頁

《 しきたりどおりに眺めたのでは、形式的でつまりません。だが突っぱなし、はげしく対決し、 否定的に見かえすことによって、それはコツ然とちがった様相をおびはじめる。そしてまったく 新しい今日的価値になって創造されるのだというべきではないか。 》 253頁

 なんともうれしい発言だ。これは良いのか?と、まず作品に疑念を投げかけるのが私の流儀。

《 芸術というものは同情したり、許されたりするものではない。あくまでも突っぱなして 対決するのです。そしてしかも、ピーンと全身的にうたれ、心をとらえる。そういうのが すごみです。 》 265-266頁

 三十五年ほど前、東京新橋の画廊で出合った北一明の茶碗とデスマスク群に、ほんとうに すごいのだろうか、と疑ってかかった。各地の国宝などの目ぼしい焼きものを鑑賞して回った。 そして北一明の焼きものはすごい、と納得した。以後も匹敵さらには凌駕するような作品に 出合ってみたいと心がけているが、未だ見(まみ)えていない。

 以下はなによりも心しておきたいと思った一文。

《 だが表現が明快だからといって内容も単純なのだと考えたら、もちろん大まちがいです。 》  116頁

 スーパーへ買いものにいったついでに文庫本を収納する小さな段ボール箱をもらってくる。 箱には「ベビースター妖怪ラーメン ラーメン丸タイプ 妖怪おふだシールつき」。 そして注意書き。

《 ※シールは1箱にランダムに入っています。
   1箱お買い求めいただいても
   全種類がそろうとは限りません。 》

 先月二十九日に亡くなった河野多恵子。本棚には単行本が二十一冊、文庫本が十四冊。 昔出たばかりの『不意の声』講談社1968年初版を購入、読んで震撼。以来注目。

 ネットの見聞。

《 力強い情動喚起力 》 大野左紀子

 使いたくなる表現だ。訴求力よりも効く。味戸ケイコさんの鉛筆画だ。

《 知性は、どれだけ知っているかによって量られるものではなく、自分が何を知らないかを どれだけ知っているかで量られる。知性とは、知っていることの量ではなく、知ることへの意欲の 強度である。自らの知を完璧と思いこみ、「正義」に囚われて他者を排除する人たちは、知性から最も遠い  》 福嶋聡