「 「歌う彫刻」と「人間=機械」(後編) 」

 椹木野衣『後美術論』美術出版社、「第14章 「歌う彫刻」と「人間=機械」(後編)」を 読んだ。『後美術論』読了。

《 少なくとも、かつてクラフトワークが「放射能」で歌った奇怪なラヴソングは、いま極東の Perfumeの手で、はるかに汚染された状況を前提に歌われるようになったわけだ。事実、 事態はもはや決して「だいじょばない」のである。 》 549頁

《 1970年の日本万国博覧会、通称「大阪万博」だ。 》 549頁

 これは逆じゃないかな。通称が「日本万国博覧会」だと思う。

《 当時の国民にとっては、それさえ不自然とは思えないほど、やがて訪れる日本の未来は 明るいと信じられていた、もしくは信じ込まされていたのだ。 》 550頁

 当時二十歳の私は反万博だった。大岡信『肉眼の思想』中央公論社1969年初版を繰り返し 読んでいた。今その本は見当たらず、1979年に出た中公文庫で再読。「未来芸術への模索」 (1968年発表)から。

《 博覧会をやるために費やされる莫大な金を、もっとましな公共事業に注ぎ込んだら、 日本政府の評判も少しはよくなるだろうに、とある万国博関係者にいうと、そういう考え方が 筋違いであることをさとされてしまった。 》

《 芸術と技術の境界線は、こういう状態のなかで、ますます漠然としたものになり、両者は ますます複雑にまじり合ってゆくだろうと思われる。芸術が技術化してゆく一方で、技術は ますます芸術化してゆくだろう。両者の波が打ち寄せ合う波頭の頂点に、未来の芸術が形 づくられるだろう。 》

 四十六年前の大岡信の言葉が響く。「第14章 「歌う彫刻」と「人間=機械」(後編)」 結びから。

《 美術は、はたして美術の後世(ごしょう)を持ちうるか。持ちうるなら、私たちは美術を、 より汎用性の高い概念へと飛躍的に桁上げしなければならない。それが本書を通じて一貫して 述べてきた「後美術」であり、日本語で呼ぶところのジャンルを破壊する「概念としての アート」なのだ。 》586頁

 朝、昨日の目こぼしのヒメツルソバを抜く。土のう袋一袋で足りる。これでしばらくお休み。 やれやれ。

 ネットの拾いもの。

《 総理の「わが軍」発言が話題になっているが、つぎは「戦力なき軍隊」ですからと 言い出さないかと、ひそかに期待している。 》

《 「ネンキンが好きな博物学者、ほら、誰でしたっけ?」 「そんな65歳になるのを 心待ちにしてる学者は知りません」 という間の抜けた会話を交わしてきました。熊楠なー。 》