『 日本人の心の歴史 上 』

 唐木順三『日本人の心の歴史 上』筑摩書房1970年初版を読む。四十五年前新刊で購入。 買った当時は読み通せなかったに違いない。古典の知識が乏しいと お手上げ。それに旧漢字旧仮名使い。今は嬉しい。該博な知識と広い知見から滴る卓見が、 悠々迫らざる筆致で丁寧に披瀝されている。じっくり深く味わい、ふむふむと読み進む。 そして漢和辞典がまた座右の書。例えば「的的」。

《 雪裡の梅花或ひは的的たる寒梅が禅家にとつて屡々語られるのは、雪の白と梅花の白、 春にさきがけて残雪の中にほころびる梅花が、一般にいへば個別と普遍、色と空との関係を 象徴的に示してゐるからである。 》 「冬の美の発見」192-193頁

 的的=てきてき=明らかではっきりしているさま。

《 「理」よりも「事」を、目にふれ、耳にひびく眼前即吟の今の事物を大切にし、それを つくづくと見とめ、わきまへることが、いまにいたるまで日本人の特色をなしている。 》  「日本人の感受性の特色」39-40頁

《 限定しながらしかと限定せず、個物に対しながらそれを他との「あはひ」においてみる。 》  「日本人の感受性の特色」42頁

《 私は萬葉集において数多く使はれてゐる「見る」及びそれに関係する言葉の喪失において 古代といふものの終焉を感じる。 》 「古今集における『思ふ』について」56頁

《 古今集以来新古今まで、即ち王朝を通じて、「心」を種とする文化、詩歌がつづいた。 》  「古今集における『思ふ』について」73頁

《 美しい春の庭をさながら極楽浄土といふやうな受取り方で受取ってゐるのは、日本では 全く新しい感受性の表現であらう。佛法佛道が源氏物語にかういふ形で受取られ、観念の中へ 入つて来たことは注意しておいてよいだらう。 》 「四季の色どり」130頁

《 このさまざまの「なぜか」に対して一括して答へれば、古今集の撰者たちが、やまとうた、 和歌は季節、季節感を本質としてゐると判断したといふことである。或ひは季節季節の風物に よつて触発される心をうたふことが和歌の本筋だと認定したといふことである。 》  「古今集の四季の部立」155頁

《 餘情の問題をつきつめてゆけば、やがて餘白の問題へ到ることは必至である。(中略) ところで餘白の問題になると、そこに表現されてゐるものと、「餘」のものとの間は直接には 連続してゐない。いはば非連続の連続である。そしてその「非」の介入が、王朝期或ひは上代と、 鎌倉室町期或ひは中世を區別、また断絶させている根本的条件である。 》 「冬の美の発見」 189-190頁

《 唱はれずして唱はれ、描かれずして描かれてゐる。餘白とは本来さういふ「白」で あらう。 》 「冬の美の発見」193頁

 ネットの見聞。

《 今日(18日)って一年でも珍しいくらいアート系イベントが重なってたのね。 どこに行ったかで、その人の後の歩みが変わるくらい。 》 椹木野衣
 https://twitter.com/noieu

 私は源兵衛川で草取り。

《 安倍首相との会談における翁長沖縄県知事の発言を聞き、『暗黒日記』を書いた清沢冽の言葉 「歴史の知識を基礎としない外交は実のない花である」をかみしめた。政府自民党のメディア介入を見て、 加藤周一の言葉「文化的成熟とは、自らを批判し、自らを笑うことのできる能力である」を思い起こした。 》  金子勝
 https://twitter.com/masaru_kaneko

《 今日、ある憲法学者としゃべっていて、今年は戦後70年で、天皇機関説事件から80年 という節目だと教えられた。学者にとっては重要な年だ。狂信的な権力者が学問を弾圧してから、 戦争で国が亡ぶまで10年しかかからなかったことに、改めて気づかされた。 》 山口二郎
 https://twitter.com/260yamaguchi

 ネットの拾いもの。

《 大塚家具の社長の大塚久美子を大場久美子と読み間違える世代は多いはず。
  久美子社長は家具屋姫で、大場久美子といえば「コメット」さんで、
  宇宙からの使者だから、ああ、あってるんだ。 》

《 どこの国の事だか知らんけど、どっかに美しい国があるらしい。 》

《 ウドやエノキのような生活 》