『シン・ゴジラ』

 朝一番で『シン・ゴジラ』を観る。ダレることなく終盤へ。よかった。政治家、官僚の皮肉な科白など芸が細かい。 二度見する人が出るのもわかる。猛暑。ブックオフへ寄らずに帰宅。

 午後三時、天皇陛下の「ビデオ・メッセージ」を視聴。深いお言葉。

 片岡義男『誰もがいま淋しい』角川文庫1984年初版の冒頭部分。

《 車体ぜんたいは、平たくて大きい、という印象を強く持っている。現実に、その車体はたしかに大きい。(中略) 平たくて大きな車体には、しかし、散漫であったり間が抜けていたりするような部分は、どこにもない。一見たいへんに 大味な造形だが、こまかく観察していくと、車体の平面や曲面、それに直線や曲線のつくり方に注意深く凝ったところが 数多くあり、そのような凝った部分がぜんたいとしてさりげなくしかも緊密にからみあっている。 》

 多分アメ車の描写だが、少し言葉を替えれば昨日ふれた川村記念美術館にあるマーク・ロスコシーグラム壁画の描写に 援用できる。
 http://kawamura-museum.dic.co.jp/collection/mark_rothko.html

 この壁面絵画を前にして思ったのは、美は細部に宿る、だった。都築響一のマネをして「美は局部に宿る」と したかったけど、羞恥心が勝った(といって書いているんだから)。味戸ケイコさんの絵もこのように凝った展示空間に 展示したかったが、そこまでの資金はなかった。いつかどこかでふさわしい空間に展示したい夢をもっている。問題は、 その時どの絵をどのように展示するか、だ。これは二十年前からもやもやしている。

 散文には散文の、詩には詩のリズムがある。書には書の、絵画には絵画のリズムがある。リズムといっても、現れは 多様。音楽のように手拍子を基本にするものから、と広がるが、ここで話題にするのは絵画表現のリズム。
 書は絵画の要素がある。どこまでが書でどこからが書的絵画か、は当然ながら明確な区別はできないだろう。 平面になされた表現作品という視点からは別に区別することもないと思うが。ま、そういうことには触れず。
 こんなことを考えたのは、昨日の「闇の復活」から北一明の焼きもの(茶碗、オブジェなど)の耀変を思ったから。 宇宙(闇)に浮かぶ銀河のような光景に、黒茶碗とは異質のものを見る。その北一明の書作品、一気呵成になされる書の、 一瞬ともいえる息詰まるリズム。それを絵画の視点から見れば、鮮やかな筆触につながる。筆触で成立しているような マネ、ルノアール、ファン・ゴッホらの絵画。そこには緩急さまざまな筆触のリズムが生きている。リズムが狂うと、 絵画の魅力も失せる失敗作に。散文、詩、歌舞音曲のみならず絵画にもリズムが重要。と、ここまで書いて中断。リズムが 内包する奥行きや深さへの考察は、まだ手付かず。山崎正和『演技する精神』、中村雄二郎『かたちのオディッセイ』 をまず読まねば、その先を展開できない。本は積んだまま。楽しみだけど、この暑さには負けた。

 ネットの見聞。

《 人を呼べば活性化するという考え方自体が地方にとっては間違え。 》 木下斉
 https://twitter.com/shoutengai/status/762534990382927873

《 ほかでもない、と言うのは、かつてヒロシマに落とされた原爆=リトルボーイを搭載した僚機(エノラ・ゲイ)に 暗号命令「準備OK、投下!」を下した指揮官機=ストレート−フラッシュ号に機長として乗り合わせたクロード・イーザリーと 戦後文通を試みたのが、このアンデルスだからだ。戦後、精神に異常をきたしたとの診断で長く病院に身をひそめることを 余儀なくされ、社会との接点を絶たれていたイーザリーの存在を広く世界へと伝えた思想家、それがアンデルスなのだ。 》  椹木野衣「59:再説・「爆心地」の芸術(26)第五福竜丸から今へ (2)」
 http://www.art-it.asia/u/admin_ed_contri9_j/PNtLwv8fnkVUciKWJ6g2/

 6日の見聞につながる。

《 広島への原爆投下を悔やんだ米兵、哲学者がみつけた「人間の良心」 》 BuzzFeed
 https://www.buzzfeed.com/satoruishido/hiroshima-eatherly-anders?utm_term=.wk26rbGMod#.xeM4OkKw9b

 ネットの拾いもの。

《 旦那に「今日の夜何食べたい?」って聞いたら疲れてるのか「よくわからない」って言われたので 「よくわからないものよ」と特に説明なしに牛乳の中に大量のアイスの実(バナナ味)を出したら 「よくわからないものだ!!!」と喜んで飲んでた。 》

《 男子の水泳を見ると、いつも「精子みたいだな」と思う。 》