「構造とリズム」

 『知の論理』、昨日の小論文石光泰夫「言葉が身体と化す」に続くのは、石田秀敬(ひでたか)「構造とリズム」。ソシュール記号論パウル・クレーの絵画を題材に論じている。

 冒頭、新小岩の布谷東京ビルが写真入で紹介されている。

《 まるで地震でずれ落ちたかのように建物が傾き、半ば地下に埋没して、重力軸が傾いたように直方体が幾方向にもずらされて建てられています。 》

《 布谷という会社も、社長の友人の建築家、安藤忠雄さんから紹介されたアメリカの気鋭の建築家「ピーターアイゼンマン」が設計した東京支社ビルの投資も重荷になったのか、2000年秋倒産した。雑誌「新建築」などでも取り上げられた業界話題のビルも、社員にはすこぶる評判が悪く、倒産よりもずっと以前、数年使っただけで廃墟となった。 》
 http://www.cms-hiroshima.com/clumn/vol_1.htm

 この建物はもう無いという。時代の変遷の早さよ。1995年に出たこの本も既に用済み=無くなっているか。私にとってはそうではないことをこの小論文で確認できた。

《 記号とは、異質なものとの関係のなかに私たちをたえず送り込み、未知の出来事を引き起こしてゆく何かである。記号とは、すでに知られた何かを表したり「何かの代りにある何か」といった教科書的な定義を与えられる以前に、「意味」という、そのつど新たな関係性の出来事を生み出しては消え去る不断の生成の運動なのです。記号や意味が、すでに安定化して自明なものとなった時間や空間のなかでの物事や情報のやりとりとして馴致されてしまうのはそれよりずっと後のことなのです。 》

 ぞくぞくする。

《 実体論的な集合が要素の同一性を基礎とするのに対して、記号のシステムのような関係論的な集合においては差異こそが基本である、ということなのです。 》

《 「主体」とは、記号の現働化において実現する「いま・ここ・わたし」の布置により生み出される効果である、と考えてもよいのです。 》

《 ある現象を構造として理解することは、分析と抽象によって対象(=客体)の本質をとらえることとは異なります。それは何よりもまず、現象がどのような関係性のシステムにおいて成立しているかを理解しようとすることであり、現象を構成する個々の対象をではなく、現象をつくりだしている意味作用の場を考えてみることなのです。そしてそれは、推論と経験による実証的な方法から関係性のモデルにもとづく方法へと、思考の態度を大きく変化させることになります。構造とは、この意味で、なによりも知の方法の問題であるのです。 》

《 そして、ポスト構造主義のテーマのひとつに、記号や構造の概念の批判あるいは脱構築があったことも忘れられません。 》

《 クレーにあるのは、じつは、閉じた構造とはちがうかたちの思考の実験なのです。 》

《 クレーにおいては、構造はたえず、複数性、断片性へと開かれてゆくのです。 》

 関係性の論考はじつに魅力あるけれども、日常では実体論にどっぷり浸かっている頭は、難解の迷宮あるいは蟻地獄に陥ったような気分になる。けれども、クレーの思考、志向に脱出口を予感する。そして連想するのは、安藤信哉の晩年の水彩画。ここに閉じたドアを開く鍵=風通しの良い外界を感じているのだけれど。

《 晩成したその絵画では、対象は対象としてそこに確固として在りながら、そのかたちと色調は解釈に固定される手前の、瑞々しい感興のままに見事に引き出され、自在に再構成されています。観る人は、肩の力を抜くことにより、その画面上を往還している自在な流れ、自在な気配に、いつしか心の風通しが良くなっていることに気づかれるでしょう。 》
 http://web.thn.jp/kbi/ando10.htm
 http://web.thn.jp/kbi/ando.htm

 ネットの書き込みを見て、北(山梨方面)へ救援にと胸が熱くなるが、足がない。週刊誌広告を見て、南(沖縄)へ応援に行くぜ、と血が騒ぐが、足手まといが。
《 左翼活動家や市民グループが沖縄入り 沖縄安保闘争勃発警戒 》
 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140217-00000005-pseven-soci

 ネットの見聞。

《 武井 咲は「たけい えみ」。黒木 華は「くろき はる」。 》

 ネットの拾いもの。

《 神が自分の姿に似せて造ったのは人間じゃなく狼だったかもしれない。
  女神が自分の姿に似せて造ったのが堀北真希様であることに異存はございますまい。 》