1971年『石の血脈』

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 昨夕帰りがけにブックオフ長泉店で三冊。ヤッフェ編『ユング自伝(1)』みすず書房1994年23刷、『ユング自伝(2)』1995年22刷、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)随聞記』ちくま学芸文庫2001年8刷、計315円。

 1971年、半村良石の血脈早川書房が出た時、評判を聞き及んで本屋へ走り、さっそく読んだ。頭が充血したような読後感だった。これは凄い……。あれから四十年。祥伝社文庫1992年初版で再読。濡れ場の描写は、記憶そのままだった。そんな細部はよく覚えている。見事な描写力だ。まったく古びていない。あらためて傑作だと実感。山田正紀恩田陸『読書会』徳間文庫2010年初版では『石の血脈』が取り上げられている。

《 恩田 うん。巧いです。

  山田 構築力、構成力という点では弱いんだけど、巧いと思ってしまう。うん、やっぱり人間の造形力かなあ。》

 人間の造形力だと思う。一介のサラリーマンから権力へすり寄って上層部へはいがっていこうとする人。それを身をもって拒否する人……。権力の陰謀によって建設会社を倒産させられ、一介のラーメン屋の主人から新規まき直しを図る下町育ちの元社長の発言。

《 働く奴が正しいんだ。みんなは……俺たち貧乏人はなぜ汗水たらして働いていると思う。おめえさん方ケチ臭い細工師にゃあ金輪際判るめえ。働いてる同士の間にゃあ、銭金でねえあったけえもんが生まれるんだ。テレビも車も学校も、そんなもなァささいなこった。おめえらのボスにゃァその味は一生判るめえ。》「第十七章 偶像破壊」

 このくだりを読んで1977年に単行本が新潮社から出た連作長編時代小説『どぶどろ』を連想。2001年に出た扶桑社文庫版に日下三蔵は書いている。

《 どの一篇をとっても人生への深い洞察に満ちた「大人の小説」になっているのは、さらに素晴らしい。》

《 売上曲線はいつも上を向いていなければならない。資本という生き物は飽くなき増大本能を持っているのだ。停滞は悪、後退は罪だ。》「第十四章 血の提供者」

《 人が死ぬ。交通事故で死ぬ。だが車は走りつづけている。欠陥車が問題になる。だが不良部分が補修されると、車は再び走りはじめる。道路が建設され、延長される。車がそこを疾走し、また人が死ぬ。人々は車で走る権利を手に入れ、そのために何パーセントかの血を払う。人々は常に緊張を続けることを要求され、ぼんやりと歩く権利があったことを忘れてしまっている。》「第十四章 血の提供者」

 四十年前と変わっていない。一昨日の毎日新聞夕刊「特集ワイド この国はどこへ行こうとしているのか」、京大教授佐伯啓思の発言。

《 「日本人が今いる文明は極めて米国的なものだと知ること。欧州とは違う。ましてや、もともとの日本の価値観や考え方とも全く違う。昔の日本人はものが少なくても、生活を楽しめた。質素倹約を大事にし、物質的なものに幸せを感じるよりも、もう少し人間のつながり、もう少し静かなたたずまいに、幸せを感じることがあったと思うのです」》

《 ひとつは、この震災・事故を近代文明への大いなる警鐘と見なし、自由、幸福、富などの無限拡大をめざし効率性を追求する今日の経済システムの大転換を図る、という「脱近代主義」(略)もうひとつは、この震災・事故を繰り返しなされる近代主義への障害のひとつと見なして、より高度な技術開発によってその克服をめざすという「超近代主義」 …… 》

《 「脱近代主義」は突き詰めれば、脱原発に向かうという。(引用者:略)一方の「超近代主義」は、技術に信頼を寄せてより安全性の高い原発を開発し、これまで以上に豊かな生活を追求していくことを意味する。近代主義の見直しは、経済だけでなく価値観の転換をも迫ってくるという。》

 ネットのうなずき。椹木野衣のことば。

《 あるときは丸一日掛けて、別の日にはちょっとだけ立ち寄って、思い出せない細部だけ見る、というようなことをとにかく繰り返す。すると、見知っていたはずの絵が、実はまったく違う絵であったことに気付くのだ。》

 ネットの拾いもの。

《 四大陸フィギュア、いつも思うんだが島国の日本は参加してもいいんだろうか。大陸じゃないのに。》