『述語的世界と制度』「第ニ章 カオス・無意識・述語性」ニ

 昨日の中村雄二郎『共通感覚論』第五章「生活世界の二つの論理」から。

《 人間活動のあらわれとして、このような無意識のシステムにかかわる象徴的世界をはっきり捉え、それに対する ふさわしい接近方法としてあらわれたのが構造論的方法あるいは方法としての構造主義であった。いうまでもなく 構造主義の構造論が在来のそれとちがうのは、自然言語の隠れた、無意識の体系をモデルにしているところにある。 》  197-198頁

《 すなわち、弁証法が主として現実界にかかわる、統合関係=結合軸に沿ってのイメージ的全体化の方法であり、 換喩的な言語の論理であるとすれば、それに対して構造論は、主として象徴界にかかわる、連合(範列)関係=選択軸に 沿ってのイメージ分節化の方法であり、〈隠喩的な言語の論理〉である、と。弁証法が顕在的に時間に沿った通時的な ものにかかわるのに対して、構造が潜在的で空間に沿った共時的なものにかかわるのは偶然ではない。また、弁証法の 手の及ばなかった空白を填めその弱点を克服するために構造論があらわれたのも、決して偶然ではない。しばしば誤って 考えられたように、弁証法は構造論によって否定されたなどというものではない。そうではなくてむしろ両者は、互いに 補い合う関係にあるのである。 》 198頁

 若い頃見聞した、弁証法信奉者の構造主義へのいきりたった論難を思い出す。

 中村雄二郎『述語的世界と制度』岩波書店1998年初版「第ニ章 カオス・無意識・述語性」後半を読了。

《 しかもその接近に際して、ラカンが重視し手がかりにしたのは、単なる言語ではなく、言語記号の二つの構成要素の うちで外部的、物質的なシニフィアン(意味するもの、能記)であった。ソシュール言語学では聴覚イメージとして、 いわばシニフィエ(意味されるもの、所記)の影のような存在であったこのシニフィアンを、ラカンは、欲望となまなましく 結びついた自律的な基本ファクターとして捉えなおし、駆使したのであった。 》 126-127頁

《 ところで、翻って考えてみると、ラカンによる言語の、それもシニフィアンの重視とは、原初的なものへの接近に際して 私自身がとった、言語活動における述語性(述語的同一性)の重視と、実に多くの点で共通している。というのも、〈主語─ 述語〉関係における主語性の重視によって、必然的に概念やシニフィエを中心に言語がとらえられ、その結果、現実あるいは 実在が主語的同一性によって固定化され、〈制度化〉される。それに対して、述語性が重視されるとき、対象は主語的同一性の 拘束から免れて、おのずとシニフィアン優越の世界が開かえれるからである。したがって、フロイトを受け継いだラカンの、 シニフィアンの観点からする無意識論は、私の〈述語的世界の考察〉にとって頼もしい援軍なのである。 》 127頁

 シニフィアンシニフィエは昔からよく目にしているが、未だによくわからない。このくだりでも混乱。理解できるまでには 時間がかかるだろう。

 昼前、天気がいいので源兵衛川中流部、下源兵衛橋上流の茶碗のカケラなどを拾う。十キロを軽く越えて終了。軽く汗。

 昼食後、ジョージ・マイケル『ケアレス・ウィスパー』をEPレコード盤で何度も聴く。いい音だ。

 ネットの見聞。

《 1913-1915: Views of Tokyo, Japan  》
 https://www.youtube.com/watch?v=BYOGClmmeao

 ネットの拾いもの。

《 聞いた話だけど、育休取ろうとした男性記者が上司に「いいけどお前のキャリアは終わりだぞ」と恫喝されたそうだ。 そこで黙ってちゃいけない。「オマエ、キャリア積んでそのザマかよ」と言い返してやろうぜ。 》 神田大介
 https://twitter.com/kanda_daisuke/status/813009300582961152

《 お金持ち「なんかほしーのあったら買ってやるぞ」
  女の子「じゃあ、オスプレイがいい!」 》

《 安倍総理オスプレイが安全機と言うなら、どうぞ総理専用機に使って下さい! 》