『唯識・華厳・空海・西田』再読六(閑人亭日録)

 竹村牧男『唯識・華厳・空海・西田』青土社2021年4月30日第1刷発行を少し再読。

《 これから、唯識思想とならぶ哲学的な仏教である華厳思想の世界を尋ねていくこととしたい。 》 第三章 華厳の哲学(一) 事事無礙法界の理路 93頁

《 大乗仏教の代表的な経典の一つに、『華厳経』がある。(引用者・略)
  この『華厳経』は大部の経典であるが、そこに空の思想はもちろん、唯心思想、如来藏思想等が説かれ、さらに華厳思想の特徴である一即一切・一切即一といった重重無尽の縁起思想譬喩等によってしばしば説いている。また、最初に釈尊=毘廬舎那仏の自内証の世界を描くとともに、全体として、信を確立し、初発心から仏になるまでの菩薩道のあり方を説くことがその主題の柱になっている。すなわち、信─十住─十行─十回向─十地─仏と修業が進んでいくことを読み取ることができるものとなっている。 》 同 94頁

《 このほか、『華厳経』の教説が一切法空を根本としていることは、間違いないところである。空ということは、『般若経』などで、「縁起の故に無自性、無自性の故に空」と説明されたが、この縁起ということについて、『華厳経」はあたかも複雑系ともいうべき無限にからみあうありかたを描いている。 》 同 99頁

《 華厳宗では世界の見方の深まりに関して、事法界・理法界・理事無礙法界。事事無礙法界の四法界の見方を提示していることを採り上げよう。(引用者・略)
  この四法界の説は、華厳宗の世界観の根本をなすものである。 》 同 104頁

《 初めの事法界であるが、この事とは事象と見てよく、あるいは個々の事物のことと見てよい。一方、理法界の理とはけっして論理・道理・摂理等のことではなく、いわば究極の普遍を理という語によって表わすのである。この理とは理性(りしょう)のことであり、すなわち空性=法性=真如のことなのである。
  その事と理とが融け合っていると見るのが、理事無礙法界である。(引用者・略)理はあくまでも事の本性なのであるから、事と離れて単独にあるわけではない。あらゆる個々の事は空性を本性としているのであり、理と一つなのである。しかし事と理とは同じとは言えないので、一つとも言い切れない。ここを唯識思想では不一不二と言っていた。華厳ではむしろその間の融合的あり方を重視して無礙と言うのであった。
  理は空性であるがゆえに自己を守らず、どこまでも自らを空化し、むしろ現象によみがえる。 》 同 105頁

《 ともあれ、真如(理)は自性を守ることなく、それゆえ理は消えて、各事の相互に融け合う世界のみが残ることになる。ここに、理事無礙法界をさらに超えて、事事無礙法界が説かれることになるのである。松は竹であり、竹は梅である、ということになる。しかも松は松であり、竹は竹である。あるいはまた、私は汝であり、汝は彼・彼女ということになり、しかも私は私、汝は汝、彼・彼女は彼・彼女である。その関係性は、一入一切・一切入一・一切即一というように、すべてに行き渡っているのであり、その間に実は重重無尽の関係性が存在しているとする。 》 同 106頁

《 この事事無礙法界こそ華厳宗が説く華厳思想の核心である。 》 同 107頁

 頼まれ用事を三つ、午前中に近所を廻ってこなす。外は暑い。午前11時31.3℃。帰宅。やれやれ。汗~。今年初の水風呂。ふう~、気持ちいい。
 午後、源兵衛川最上流部へお散歩。途中、水没している飛び石を歩く。水は踝までだが、やったら冷たい。二分間の水業。子どもたちはわんさか水に入って歓声を上げている。ホント、寒くないのかなあ。子どもたちが目いっぱい勝手に遊んでいる姿は眼福。気分を晴らして同じ道を帰る。足はまだ冷えている。