『唯識・華厳・空海・西田』再読七(閑人亭日録)

 竹村牧男『唯識・華厳・空海・西田』青土社2021年4月30日第1刷発行を少し再読。

《 以上の四法界の内容を、図式的にまとめておこう。

  事法界=諸法 個々の事物 個物 特殊 現象界 相対 人間
  理法界=法性 事物の本性 一般 普遍 実在界 絶対 神
  理事無礙法界=理と事とが無礙に融けあう
  事事無礙法界=事と事とが無礙に融けあう 》 第三章 華厳の哲学(一) 事事無礙法界の理路 107頁

《 華厳経における縁起の論理構造を学ぶ際に、その基本的な用語の概念について知っておく必要がある。まず異なるもの同士(異体)の間で、作用(用)が相互に浸透しあっていることを、相入という。一方、それら異なるもの同士(異体)の間で、おのおのの存在そのもの(体)が一体化しているところを相即という。作用(用)における関係を「入」の語で表し、存在そのもの(体)における関係を「即」の語で表わすのである。このように、作用の視点と、存在の視点から縁起の関係を見ている。 》 同 108頁

《 次に、この異体の関係に対し、同体の関係というものもあるという。その前提に、ある一つのものの中において、それ自身と他のものの要素との関係が存在しているという。 》 同 109頁

《 このとき、ある一つのものの中において、それ自身と他のものの要素とが、作用(用)において融け合い、存在そのもの(体)において融け合っているという、これが同体の関係というものである。 》 同 110頁

《 もう一度言えば、「異体」の「用」の関係は「相入」と言われ、「異体」の「体」の関係は「相即」と言われる。同様に細かく言えば、「同体」の「用」の関係は、「一中多・多中一」と言われ、「同体」の「体」の関係は「一即多・多即一」と言われるものだが、ともかく用の関係は相入、体の関係は相即と覚えておけばよいであろう。 》 同 110頁

《 仏教では、あらかじめ時間があるとは見ず、「時に別体無し、法に依りて仮立す」を採っている。その法が、相入・相即自在であれば、時もまた同様になることは当然ということになろう。 》 同 118頁

《 こうして、ある構成要素と全体が一つであるだけでなく、構成要素と構成要素も、互に相即しているという。これはまさに、事事無礙法界の論理にほかならならないであろう。縁起は関係性といえようが、華厳思想によれば、ただ一重の関係性ではなく、このような重重無尽の関係性があらゆる存在を貫いているのである、むしろ空性としての本性は消えて浮上したこの無限の関係性こそが一つ一つの事物の本質である、というのが華厳宗の見方なのである。 》 同 127頁

 「第三章 華厳の哲学(一) 事事無礙法界の理路」、再読終了。何回読んでも難解。が、じつに興味深い世界観だ。

 知り合いの女性画家のブログに「秋に個展をやるギャラリーにお金を払って来た。」とある。彼女でも企画画廊ではなく貸画廊なのか。