『唯識・華厳・空海・西田』再読十一(閑人亭日録)


 竹村牧男『唯識・華厳・空海・西田』青土社2021年4月30日第1刷発行、「第七章 西田の哲学(一) 「超個の個」の宗教哲学」を再読。

《 西田哲学は「場所の哲学」と目されているが、私はむしろ、真の「個物の哲学」であると考える。 》 248頁

《 場所の論理は対象論理に対抗し、あるいはそれを包摂するものである。対象論理は、世界を対象的に捉え、分析・究明するものである。それは自然科学に代表されるように、豊かな生産につながる成果を上げてきた。その基本姿勢は、divide and rule であり、分割して支配するものであった。その近代合理主義は世界を征服したかのようであったが、今日、環境問題その他、さまざまな深刻な問題が噴出している。その背景に、世界をただ分割してその構成要素を取り出すという、要素還元主義の問題がある。本来、複雑な関係にむすばれつつ、全体の中に固有の位置を占めているものに対し、分割し切断していくという手法は、今や世界の側からさまざまな逆襲を受けていると言わざるをえないであろう。
  のみならず、対象世界を見ているだけで、それを見る主観・主体の側への自覚がすっぽり抜け落ちている。人間存在そのもののことが忘れ去られている。それでは世界といってもその半分は切り落とされていて、いのちの深みに配慮し、その願いに耳を傾けることはとうてい不可能であろう。
  一方、場所の論理とは、主観・客観の構図の中で、客観のみを扱うものではなく、そこに於いてあるものとそれがおかれた場所との両者のありようから世界を理解しようとするものである。 》 249-250頁

《  西田の道元理解

  この否定ということは、我々人間の側からいえば、自己を対象においてしかも否定するというようなことではなく、自己が自己に対象的にかかわることを徹底的に否定していくことにほかならなない。対象的分別における自己の把得に死ぬのである。このとき、自己に死んで、しかも即今・此処のかけがえのない主体そのものを生きることになる。自我への対象的執着を脱して自己に生れるのである。心身脱落・脱落心身とは、そのようなことであろう。 》 260頁

《 修行して仏になっていくのではなく、即今・此処において自己を脱してしかも自己であるところの否定即肯定、無即有なる、絶対矛盾的自己同一なるいのちを生きていくのである。 》 261頁

《 道元の句を手がかりに、自己を対象的に捉える立場を透脱して、自己を超える根源においてしかも絶対主体としての自己として成立していることに徹することが覚りなのであり、ここにおいては、禅も真宗も同じだとしている。 》 263頁

《 個と一般者(特殊と普遍)の種差の階層がある中で、個が究極の普遍の方向に順に還元されていくのは「対応」である。しかし個の方向に進めば進むほど、かえって究極の一般者である絶対者に出会うのは、「逆対応」である。この個と絶対者の間には、絶対の否定を介しての、不一不二の関係がある。絶対矛盾的自己同一の関係がある。そのことを含んで、「逆対応」なのである。こうして、「自力他力というも、禅宗と言い、浄土真宗と言い、大乗仏教として、もと同じ立場に立っているものである。その達する所に於いて、手を握るものがあることを思わねばならない」(本書二六二頁)とも言われたように、逆対応において、禅と真宗は手を握り合っている。のみならず、キリスト教もまたここにおいて手を握り合っているのである。 》 274頁

《 ともあれ、ここで個(自己)とは、単に主語的なものであってはならない、「自己自身を限定するものでなければならない、働くものでなければならない、一般を限定する意味を有ったものでなければならない」こと、主体性を発揮してこそ自己であることには、深く思いをいたすべきである。その個は、実は多の個に対してはじめて個でありうることを、西田は明らかにしている。ここに他者との関係の中で初めて自己であることを、その意味で他者の全体が自己であることが表明されている。その見方は、華厳の事事無礙法界や、空海のいう曼陀羅即自己につながっていよう。 》 275頁

 「第七章 西田の哲学(一) 「超個の個」の宗教哲学」、再読終了。いやあ、面白かった、と言えば不遜だが、おもしろかった。やれやれ。

 朝、亡母の祥月命日、裏手の墓地へ。墓前で合掌。脇の源兵衛川を眺める。少しずつ増水。さらに速く流れていく。帰宅。暑い。水風呂へ。ふう。