『唯識・華厳・空海・西田』再読十(閑人亭日録)

 竹村牧男『唯識・華厳・空海・西田』青土社2021年4月30日第1刷発行、「第六章 空海の哲学(二) 動態的曼陀羅の風光」を再読。

《 空海密教真言宗という。それは、陀羅尼のようなものを重用するからだけではない。絶対者のような法身仏の説法は真実の言葉であるからである。その際、『弁顕密二教論』に、「言、秘奥なり」と言われるように、密教の教えはその語の表面的な意味のみでは了解されず、より深い意味を汲まなければ真意は知られないようなものである。そのように、言語が時に暗号のように用いられる。ゆえに密教なのである。 》 202頁

《 密教における言語では、字(音素)・名(単語)・句(文章)それぞれのレベルで、一つのものが無辺の意味・道理を表現しているという。このことを受け止めるとき、世俗言語における一義的な意味体系の呪縛を超えて、新たな世界に遊ぶことができるであろう。 》 205頁

《 言うまでもなく三密とは、衆生の身・語・意の三業に対応した、仏の身体的行為、言語的行為、心理的行為のことである。この仏の活動のありようを明かすことが、密教の説法の目的なのである。 》 209頁

《 仏身だけでなく、衆生身も含めて、その身と土とは、相互に内外となり、相互に依正となるという。身体の中に環境があり、その環境に身体がある。そこに重々の関係があり、そこに色塵ないし五感の対象がありうることは言うまでもない。そういう五感の対象に基づいて、言語がありうるのだという。あるいは五感の対象の一々は、実に事事無礙のあり方を表現しているのだということであろう。 》 217頁

《 ともあれ、こうしてみると空海は、「即身成仏」の「即身」とは、自己(身及び国土の存在と作用)があらゆる他者(身及び国土の存在と作用)と相互に渉入するあり方にある身であることを意味している、と一貫して強調していたことになる。『即身成仏義』が明かす「即身成仏」の意味は、あらゆる他者と重重無尽の関係を織り成す即身として、すでに成仏しており、かつ密教の教えにしたがえば、現世のうちにそのあり方をまどかに自覚・実現して速疾に成仏しうることと言うべきなのである。この「即身成仏」の理解は、「即身成仏」の語の表面的な了解(字相)にとどまらない、それに隠された意味(字義)を深く究明した、空海の実に独創的な解釈である。 》 231頁

《 以上、空海の人間観・世界観によれば、我々の自己は、実に「重重帝網のごとくなる即身と名づく」であり、つまりあらゆる諸仏・諸尊ないし一切有情を自己としているのである。 》 232頁

《 こうして、自己はあらゆる他者の全体ということになり、もとよりそのような自己であって、かつ成仏したときにはその全体を明瞭に自覚することになるのであろう。 》 233頁

《 空海が明かす曼陀羅世界は、私が思うに、華厳思想で説く事事無礙法界を、諸仏・諸尊の無礙渉入に組み替えたもの、人人無礙において表現しなおしたものと言えよう。即身成仏も曼陀羅も、華厳思想の哲学に限りなく近いものである。考えて見れば、事とは客観的事物なのではなく、主客相関の一事実というべきであろう。それは、まさに各人のいのちの一瞬一瞬である。その各事が、重重無尽の関係の中にある。そこを人(にん)ととらえ返して表現したものが曼陀羅であると考えられる。密教は、華厳思想の世界観を、いわば立体化し動態化したものと見ることができよう。 》 240頁

 「第六章 空海の哲学(二) 動態的曼陀羅の風光」をなんとか再読終了。