『唯識・華厳・空海・西田』再読十二(閑人亭日録)

 竹村牧男『唯識・華厳・空海・西田』青土社2021年4月30日第1刷発行、「第八章 西田の哲学(二) 自他間の根源的構造と当為」を再読。

《  「平常底」の世界

  西田の最後の論文、「場所的論理と宗教的世界観」の主題は、「逆対応」と「平常底」なのであった。「平常底」の底とは、ボトムのことではなく、ただ~的というのと変わらない。ただしそれを名詞化して用いているものであり、すなわち、「平常的なること」「平常的なるあり方」の意である。 》 277頁

《 自己を超えたものにおいて自己を持つということは、自己の根源の無に徹することであり、その絶対者の自己否定としての無において即今・此処のかけがえのない自己として成立していることの自覚のなかで生き抜くということである。その意味で、宗教の根源に徹底したときには、かえって現実の歴史形成的世界に生きることになる。(引用者・略)
  この現実世界を生きるのみであるがゆえに、何もそれまでと変わるところはない。しかし自我への執着を離れるがゆえに、物となって見、物となって聞くのであり、そこでは全身全霊のいのちが展開することになる。まさに全体作用的であり、一歩一歩、血滴滴的である。無分別の分別として、分別を尽くすのである。 》 280頁

《 このように、あくまでもかけがえのない、一回限りの自己を追求し、自己の根源に徹するとき、絶対に無にして自己をなりたたしめているものに逢着する。そこに絶対自由の自己を見る。その意味では、これほど深遠な自由はない。しかもその自由に、従来の歴史的世界を超越して歴史を創造する主体を見出すのである。自己の根源から、既存の世界を裁ち直し、新たな世界を形成していくことになるのである。 》 285-286頁

《 個をめぐってもう一つの命題がある。それは「個物は個物に対して個物である」というものである。 》 288頁

《 このように、真の個物とは、汝を認め、それに相対する私としての自己のことなのであった。私があくまでも私を追求し、汝はどこまでも汝を追求して相い対する時、そこに絶対の断絶(否定)を認めるのでなければならず、しかもそのことを認めることが私を生かし汝を生かすこととなる。この根本的な構造に立つとき、まさにそれぞれの主体が創造的にはたらくことが出来るというのである。 》 293-294頁

《 こうして、私と汝が絶対の否定を介してつながる、その絶対の否定をふまえることそのことが、当為である。我々は、一般者の規定を超えて絶対に自由であるが、絶対に自由であるがゆえに、汝の絶対自由と直面し、それを尊重してこそ私なのであり、汝に対することにおいて、それも複数の、無数の汝に対することによって、自己に死んで真に生れる。そのとき、絶対に自由であると同時に、どこまでも当為ということを自覚せざるを得ない。 》 296頁

《 とはいえ、その当為の内容、あるいは真理や客観的意味の内容は、いまだ明瞭とは言えない。 》 301頁

《 この非連続の私と汝の結合(連続)は表現に基づくことになる。表現はしばしば制作のことにほかならず、世界は制作的活動の総体である。ということは、真の社会とは歴史的創造的であるということである。我々は、汝と人格的に対し、その表現に対することの中でこそ、深い生命の内容を自覚し表現していくことができる。その相互のはたらきあいの中で、それぞれが真の自己となり、その方向に当為も自覚されることになる。 》 305頁

《 その「超個の個」を仏教でいえば、『般若心経』の「色即是空・空即是色」、唯識思想の依他起性と円成実性の不一不二、華厳思想の「理事無礙法界」に相当しよう。一方、「個は個に対して個」は華厳の「事事無礙法界」に相当し、密教曼陀羅世界に相当しよう。西田が「超個の個」の背景にあると説く「絶対者の自己否定において多個が成立する」という事態は、華厳思想において、「真如は自性を守らず、隨縁して而も諸法と作る」と軌を一にしている。ただしこの事態は、先に一元的な世界があり、後にそこから現象世界が形成されてくるということではない。もとより真如と諸法とは不一不二の在り方にあることを今の言い方で表しているのみである。 》 306頁

 「第八章 西田の哲学(二) 自他間の根源的構造と当為」を再読終了。いやあ、興奮。