『縄文論』再読・二(閑人亭日録)

 安藤礼二『縄文論』作品社二〇二二年一一月一〇日第一刷発行、「草原論」を再読した。

《 古典時代の秩序が解体されるなかで「近代」が形づくられていくのだ。(引用者・略)私の真の意図としては、「近代」はもはやヨーロッパだけにとどまらず、この極東の列島をも巻き込んだ「学」の再編にして「表現」の再編をともなっていたことを明らかにする点にある。ヨーロッパの近代化と不可避的な関係をもちながら、ともに近代化しつつ変容していったヨーロッパの外側に立ち、そのヨーロッパの外側から、近代のもっていた可能性と不可能性の両者をあらためて測定し直すことにある。 》 17頁

《 近代的な新たな学の中心には、「人間」が位置づけられている。 》 18頁

《 根源的な「物質」は、生命の「界」(動物・植物・鉱物)の分類以前に位置づけられ、それゆえ、生命以前と生命以降の「境界」に位置し、非生命たる無機物と生命たる有機物、物質と精神、死の世界と生の世界を一つにむすび合わせる。 》 22頁

《 なぜ、霊長類のなかで、ただヒトだけが種として直立二足行することが可能になったのか。霊長類の調査を本格的にはじめるずっと以前、すでにこの『生物の世界』の段階で今西(錦司)は、ほとんどその答えを出してしまっている。身体が固定されてしまった大人たちではなく、身体に柔軟性が残されている子供たち、幼児たちが、一斉に変わるから、である。 》 44頁

《 物質も精神も、すべては根源的な「一」なるものからはじまる。さらに、ハーンは、その「記憶の遺伝」説を、極東に伝わり変容した大乗仏教の理念と等しいものとするのだ。進化論の原理と、大乗仏教の理念の融合。おそらく西田は、そうした点に鋭く反応したのだ。「前世の観念」の段階で、ハーンはすでに、「如来蔵」(「如来の子宮」を意味するとともに「胎児としての如来」を意味する)という言葉を使って、森羅万象あらゆるものの起源である「未知なる現実存在」のことを、森羅万象あらゆるもののなかには「聖なるもの」が孕まれている、つまり森羅万象あらゆるものは「如来」(仏)になる可能性を胎児のように孕んでいる、と説いていた。 》 64頁

《 遊牧とは、遊動する狩猟採集民たちが、定住する農耕民の生活を経ることなく、動物たちに導かれて、動物たちとともに草原を移動していくことで成立した。だからこそ、遊牧民たちは農耕民たちにはもつことのできない強大な力を手に入れることが可能になり、ある段階では、農耕民たちを圧倒するまでの集団、人間と動物が「共生」した未曽有の戦闘集団を築き上げることに成功したのだ。草原という時間的にも空間的にも限定されることない地平で、系統としてはそれぞれ異なった進化を遂げてきた「種」と「種」とが、「群れ」と「群れ」が出会う。そのことによって未知なる「共生」が可能となり、未知なる力が解放される。まったくの偶然の出会いが必然となり、新たな身体、「共生」の身体が創造される。 》 72-73頁

 ラフカディオ・ハーン小泉八雲)の著作に「如来蔵」が出ているとは。驚いた。