『縄文論』再読・七(閑人亭日録)

 昨日の論創社「本を読む #091〈梶井純『戦後の貸本文化』〉」のリンクがつながらない、というか・・・。パソコンを替えてから不具合が続く。苦老人にはお手上げ。


 安藤礼二『縄文論』作品社二〇二二年一一月一〇日第一刷発行、「まれびと論」の「まれびとの祝祭──呪術の論理」を再読した。

《 まれびとは海の彼方にある冥界にして他界、「はは(女ヘンに比)が国」(母たちの国)から、時を定めてやってくる神にして人である。 》 236頁

《 異界にして他界から「まれ」に訪れる神にして人。折口(信夫)は、そのよう存在を、まれびとと名づけた。 》 238頁

《 (岡本)太郎が、まれびとを時間的に拡張していった果てに見出したもの、それこそが縄文の土器であった。 》 241頁

《 太郎が縄文のなかに見出したもの、森羅万象あらゆるものが霊的な力、呪術的な力によってむすばれ合った狩猟採集を基盤に据えた社会の表現であった。縄文の土器が体現する遊動的な曲線に満ち、現代美術にも引けを取らない抽象的で象徴的な造形こそ、未来の芸術家が目指すべきものだった。「四次元の芸術」と太郎は記してくれている。まれびとたちが残してくれた芸術の一つの到達点でもあるだろう。 》 242頁

《 つまり、人類とは言語を操る動物であり、芸術作品を造形する動物であり、なおかつ未知なる新天地に向けて移動していくことをやめない動物でもあった。言語とは、現実を認識し、その在り方を他者たちに向けて伝える手段であるとともに、それ以上に、現実とは異なったもう一つ別の世界の在り方、あるいは無数に異なった世界の在り方を、他者たちに向けて想像させる手段でもあった。現実の世界を容易に乗り越えてしまう想像の世界を、他者たちと共有する手段でもあった。 》 247頁

《 定住と大規模な農耕によって定義づけられる新石器の革命を集約するものは「国家」の誕生であろう。しかしながら、人類のすべてが「国家」を必要としたわけではない。 》 248頁

《 つまり、列島の北や列島の中央と同様、列島の南でもまた、旧石器と縄文は、新石器の革命に抗いながら、連続しつつ発展していったと考えられるのだ。 》 249頁

《 言葉の芸術家たちは、「類似」の関係を「隠喩」として、「類似」する意味をもちながらまったく異なった言葉を用いて表現し、さらには「隣接」の関係を「換喩」として、部分をあらわす言葉だけで全体を提示するような形で表現し、現実にもとづきながらも現実とは異なったもう一つ別の世界を、ただ言葉だけで形づくられた虚構(フィクション)の世界を紡ぎ続けているのである。 》 252頁

《 現実の「もの」に言葉のもつ超現実の力、言葉のもつ超現実の意味を刻みつける。それが呪術の本質であり、表現の本質である。だからこそ、文学の世界、芸術の世界に、繰り返し呪術的な思考が復活してくるのである。それは人類が人類であることの証明であった。 》 255頁

 夕食を屋上でするというので、机や椅子を運ぶ。きょうはここまで。