安藤礼二『縄文論』作品社二〇二二年一一月一〇日第一刷発行、「場所論」を再読した。
《 しかし、未知なる表現の未来は、そうした「奇怪」で無残な廃墟からしか生まれてこない。 》 80頁
《 「近代」という時代において、表現の真の新しさ(「モデルニテ」)は、外なる現実の世界には存在しない。人類が発明した、写真をはじめとする諸機械によって、外なる現実の世界は正確に記録され、正確に再現されるようになってしまったからだ。
芸術家は、外なる現実の世界を、リアルに写し取る必要はなくなった。芸術家が探求しなければならないのは、色彩が生まれ、音響が生まれ、さまざまな感覚が生まれ出てくる内なる「無限」の場所であった。その内なる「無限」の場所で、色彩と音響は、さまざまな諸感覚は、互いに交響し合う。現代的な画家は、そうした内なる諸感覚の総合をこそ、画布の上に定着しなければならない。印象派以降のアヴァンギャルド芸術が真にはじまる地点である。 》 95頁
《 「如来蔵」とは、西田幾多郎と鈴木大拙にとって、表現の原形質であり思考の原形質であるのみならず、生命の原形質と考えることも可能なものだった。
だからこそ、西田の哲学は表現の学となり、思考の学となり、同時に生命の学ともなっていたのだ。表現を孕み、思考を孕み、生命を孕む母なる「無限」の海──すなわち「如来蔵」──が、そうした事態を可能にしたのである。 》 101頁
《 真の自我、人間的な自我以前の先験的──アプリオリな──自我とは、活動するもの(「行」)であると同時にその活動によって生み出されたもの(「事」)でなければならなかった(「事=行」)。 》 105頁
《 真の自我、先験的な自我は「非人称の場」として存在すると同時に、自らを「私」として定立する。つまり、「非人称の場」がもつ能動性そのものでありながら、その能動性によって「私」として産出されるものである。「非人称の場」に立って、「私」そのものの産出を体験することを、西田は「自覚」と呼ぶ。 》 106頁
《 ランボーの「見者の詩法」からマラルメの「無の詩法」へといたる歩みは、ちょうど西田幾多郎の『自覚に於ける直観と反省』から「場所」へといたる歩みと並行している。「見者」がその目で見なければならないのは、「無」そのものなのだ。 》 122頁
《 マラルメが「象徴」を論じるために用いた「宝石」の比喩は、華厳的な世界観そのものである。 》 138頁
じつに濃密、重厚にして熱い論述だ。マラルメ『賽の一振り』を再読したくなった。