『全集・現代文学の発見』(閑人亭日録)

 『全集・現代文学の発見』学藝書林刊の小さな新聞記事を読んで高校生の私は本屋へ走った。全十六巻のうち最初の配本は『第七巻 存在の探求 上』昭和四十二年十一月十五日 第一刷発行 七百五十円。埴谷雄高『死霊(全)』が幻の書と紹介されていた。わくわく。早速読んでみた。なんだかわからないけれども、じつに刺激的だった。「これぞ、存在の探求だ」。当時、哲学(存在論)に興味をもっていた。以来半世紀余。先だって病床で未完の『死霊』を読了。
 この『全集・現代文学の発見』学藝書林は、人生の方向を決定づけた全集と、今にして気づく。だが、十六巻全部を購入したわけではなく、興味を惹かれた十一冊が本棚にはある。当時から完全、完集を目指してはいなかった。自分にとって必要不可欠と見なすエッセンス、モノを選んでいた。そのうちの一冊が『第13巻 言語空間の探検』昭和四十四年二月十日第一刷発行 七百五十円。大岡信編集のこの巻は、繰り返し読んだ。安西冬衛から天沢退二郎まで現代詩人の詩がずらりと並ぶが、その後に控えた塚本邦雄岡井隆の短歌、金子兜太(とうた)、高柳重信(じゅうしん)、そして加藤郁乎(いくや)の俳句にぐっと興味を覚えた。大岡信は解説の結びに書いている。

《 また、現代短歌、現代俳句の代表的作品が収録されているが、現代の詩的達成を考える場合、とくに「言語空間」の多様なひろがりを考え合わせるなら、当然現代詩と同じ資格においてとりあげられるべき短歌や俳句があるという考え方から出たものである。蛇足ながらつけ加える。 》 529頁

 最初の塚本邦雄の短歌「惡について」第一首。

《 五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤獨もちてへだたる 》

 嗚呼! ガツンとやられた。
 そして加藤郁乎「像」の第一句。

《  冬の波冬の波止場に来て返す  》

 この重々無尽の揺れ戻し・・・は何だろう。無意味の極み・・・か。
 以後、塚本邦雄と加藤郁乎の本を探索することになった。

屈折 鬱屈 挫折(閑人亭日録)

 屈折、鬱屈、挫折。嬉しくない言葉が三つ並んだ。それは私の青春の代名詞。まあ、ひどい言葉だ。でも、そう。大学の卒業時、母親から懇願され、一年間地元の調理師学校へ通った。早朝、両親の営む甘味処の商品の仕込みを手伝ってから学校へ。半年後、仕込みを終えた父が心筋梗塞で急死。店をどうするか。家族、従業員のために継ぐことを余儀なくされた。葬式の時、大学の友人から「この仕事はお前には向かない」と言われた。それはよくわかっている・・・。挫折感に襲われた。鬱屈した日々、月に一度、東京の美術展へ行くことが唯一の息抜きに。
 二十代半ば、東京の知人と再婚した女性は私の第一印象を「ベトナム帰還兵のようだったわ(=根暗)」と述べた。彼女から北一明の著作『ある伝統美への叛逆』三一書房1981年初版を薦められ、読んでみた。彼女に感想を認めたところ、それを読んだ北から連絡があった。それから北との三十年余りにわたる親交が始まった。
 二十代半ば、味戸ケイコさんの絵画集『かなしいひかり』講談社1975年初版に、池袋駅東口のパルコにあった詩の専門店で遭遇。絵を見て迷わず購入。それから味戸さんの本を集めはじめた。ある本の最終頁に住所が記されており、ファンレターを投函。当然返事など期待しないまま何通か投函。しばらくしてお返事が届いた。味戸さんの絵に、深く沈み込んだ重い心が掬われた。
 味戸さんの絵に鬱屈した心が救済された。北一明の「伝統美への反逆精神」に心が奮い立った。

曇天小雨黄昏・・・(閑人亭日録)

 午前の会合を欠席。午前午後、布団で横になる。ことんと寝落ち。なんでこんなに寝てしまうのだろう。陽気のせいか。病み上がりのせいか。
 大坪美穂さんの個展が紹介されている記事。来月行かれればいいが。
 https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/2024/04/18/153857
 黄昏人生・・・昏れなずむ雨の夕景色をぼんやり眺めて夕食。友だちの電話が鳴る。友人の母親が亡くなったという知らせ。神奈川県の葬儀場へ行く算段を友だちは立てる。みんな亡くなっていく・・・。食慾が出ないなあと思いつつ結構食べた。仕上げにイチゴとヨーグルト。しっとり美味しい。なんか元気が湧いてきた。ゲンキンな私。それでいいのだ。オレはジジイだ(意味ない)。

深沢幸雄の盃(閑人亭日録)

 銅版画家・深沢幸雄氏から生前恵まれた盃二客を久しぶりに卓上に置いて鑑賞。一つは径65mm、高さ50mmほどの渋く青い釉薬が厚く掛けられた磁土の盃。もう一つは径70mm、高さ50mmほどの渋い灰釉薬の掛けられた塩笥(しおげ)型の陶土の盃。どちらも小ぶりで掌にすっと載り、まるく収まる。この感触が、北一明の盃とは異なる特徴。北一明の盃は、茶碗の小型版(ミニチュア)といえるもの。掌にすっと収まるものではない。指先で挟んで全体を鑑賞するのが北一明の盃。深沢幸雄の分厚い胎土の持ち重りのする盃は、器全体が柔らかな丸味のある局面を描いている。鋭角な表現に対する柔和な表現。そんな違いを、頂いた昔は気づかなかった。北一明は、切っ先鋭く抜きん出た表現を盃にも求めていた。深沢幸雄は、掌(たなごころ)にすっと馴染む感触を大事にした。それはいかにも日用雑器の印象だが、それもまた味わい深い。鑑賞陶磁器ではなく、実用陶磁器。若い人なら「カワイイ!」と言うだろう。大事に使いたい。

牧村慶子(閑人亭日録)

 昼過ぎ、沼津市でギャラリー・カサブランカを営んでいた勝呂女史が来訪。去年の夏に逝去された絵本画家牧村慶子さんの絵をデータベ-ス化するために、私のもっている二点を借りていかれる。勝呂さんは、去年から体調不良で仕事を休まれていた。まだ本調子ではないようだ。お互い服用している薬の副作用のことなど語り合う、というか同病(?)相憐れむ。歳だねえ(私は)。それにしても、水道水が不味くて、という薬の副作用に共感。そうかあ。最近やっと水がまともに感じられるようになった。家の水道管がどこかずれているのでは、と水道局に問い合わせようかと思っていた。電話しなくてよかった。とんだ恥をかくところだった。それにしても、味覚の変調はまことに困る。味覚の復調はとてもうれしい。なによりも不味くて飲まずにいたコーヒーが旨く感じられるようになった。嗅覚は弱いほうだが、それで困ることはない。視覚、味覚、触覚、聴覚は歳相応。歳といえば昼前、買い物からからふらふら帰ってきて自宅前で老年のご夫婦から挨拶された。この爺さん、誰かなあと訝しく思ったが、ハタと気づいた。数年来顔を合わせたことのない幼馴染の同級生と奥さん。ビックリしたあ。八十歳は優に超えていいるように見えた。なんといっても前歯が派手に欠けている・・・十年以上前だったか。彼は当時流行り始めた(?)歯のインプラントをした。「これで十年はもつ」と白い歯を自慢げに見せた。私は流行りものには手を出さない性格で、ふうん、と聞き流していた。あれから十年余。前歯が無いとは・・・。今のところ、硬いものを普通にガシガシ齧られる。歯が命。噛んでも噛んでも味がしないのは困りものだが、噛めないのはさらに困る。味覚が戻ってきてやれやれ。夕食後、勝呂さんから手土産にいただいた「いちご大福」を賞味。見たことはあるが、食べるのはこれが初めて。美味しい。いちごのほのかな酸味と皮のやわらかい甘みがうまく溶け合っている。売れるはずだ。

賞味期限 消費期限 つづき (閑人亭日録)

 味戸(あじと)ケイコさんの場合はどうだろう。椹木野衣・編集『日本美術全集 第19巻 戦後~一九九五 拡張する戦後美術』小学館 二〇一五年八月三十日 初版第一刷発行、「150 雑誌『終末から』表紙絵 味戸ケイコ」、椹木野衣(さわらぎ・のい)「解説」から。

《 味戸ケイコ(一九四三~)の名は知らなくても、一九七〇年代に思春期を過ごした読者の方なら、その絵にはどこかで見覚えがあるのではないか。(引用者・略)しかし、一九八〇年代も半ばとなり、バブル前夜の楽天的な気運がそんな陰りを一掃してしまうと、気づかぬうちにいつのまにか見かけなくなっていた。けれども味戸の絵は深く人々の心に沈み、決して消えることはなかった。それどころか、こうしてあらためて見たとき、味戸の絵は、いまもう一度その役割を取り戻しつつあるように思われる。(引用者・略)もとが版下として描かれたゆえ、用を終えると所在が不明になりがちなこのころの味戸の原画は、幸い静岡県在住の所蔵家の目に留まり、その多くが大切に保存され、未来に発見されるまでの、決して短くはない時の眠りについている。 》 273頁

 ヨハネス・フェルメールやジョルジュ・ド・ラ・トゥールと同じ運命、か。二人は二百年ほど忘れられていた。そりゃ長い。伊藤若冲は六十年あまり・・・私は生きてはいない。もっと早く発見されてくれえ。

賞味期限 消費期限 (閑人亭日録)

 食べ物に賞味期限(おいしく食べられる期限)と消費期限(食べられななる時)があるように、美術作品にも賞味期限(評価される期限)と消費期限(評価されなくなる時)があると思う。鮮度が命の野菜、魚の刺身。漬物や味噌、ウィスキーのように熟成するもの。さらに長い歳月を経て芳醇な美味をもたらすもの。・・・一般大衆に一時期大いに受けたカシニョール、ヒロ・ヤマガタラッセンは、鮮度が命の野菜であり、魚の刺身。ヨハネス・フェルメールやジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、長い歳月を経て芳醇をもたらすもの。すると、その間の、熟成するものに該当する美術品は何だろう。思い浮かぶのは、国華社や審美書院の複製木版画。その極精細多色摺り木版画は、印刷技術が遥かに進んだ二十世紀後半から、コンピュータ技術による精緻な印刷が進んだ現在の複製画に較べて遜色がない。いや、古典絵画の複製画を並べて見れば、その画面から受ける訴求力の違いを実感する。その違いは、近代の彫師摺師の卓越した技もさることながら、古典絵画への畏敬の念が自ずからなせる人間味が隠れているせいかも知れない。機械(コンピュータ)の分解能力と職人の眼力(意気込み)の、人間味のあるなしへの鑑賞者の反応=感応のせいかもしれない。