社会的共通資本再び

 昨夕帰りがけにブックオフ長泉店で一冊、饗庭孝男(あえばたかお)『ヨーロッパとは何か』小沢書店1991年初版、 105円。

 きょうの『ゲゲゲの女房』、雑誌『ゼタ』の身の処し方にK美術館を重ねてしまった。きょう最初の来館者はちょっとノーテンキな若いカップル。展示風景を見て「おお、スゲー」。きょうはちょっと見、こんどゆっくり来ます、とゴキゲンな表情を見せる。うん、いい若者だ。年配の来館者は、貸本漫画屋、あったあった、いつの間にかなくなっちゃった、と懐かしく見ていらっしゃる。しばらくすると、文字どおり腰を据えて、じっくりと、無言で、読み耽っていらっしゃる。なんか微笑ましい。

 内田樹が四日のブログで「社会的共通資本」を再び援用している。

≪土地、大気、土壌、水、森林、河川、海洋などの自然環境、道路、上下水道、公共交通機関、電力、通信施設などの社会的インフラストラクチャー、教育、医療、金融、司法、行政などの制度資本は、「社会的共通資本」と呼ばれる。それは広い意味での人間の生きる「環境」を形成する。
 社会の土台である。
 その要件は、軽々に変化してはならないということである。
「社会的共通資本は、それぞれの分野の職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって、管理、運営されるものであるということである。社会的共通資本の管理、運営は決して、政府によって規定された基準ないしルール、あるいは市場的基準にしたがっておこなわれるものではない。(・・・)社会的共通資本の管理、運営は、フィデュシアリー(fiduciary)の原則にもとづいて、信託されているからである。」(宇沢弘文、『社会的共通資本』、岩波新書、2000 年、22頁)≫

 フィデュシアリー(fiduciary)とは信託といった意味。

≪メディアは「社会的共通資本」について、これがきわめて重要な概念であることを知りながら、決して論及しない。
 メディアが「社会的共通資本」に算入されていないからである。
 メディア知識人が「職業的専門家」にリストアップされていないからである。≫

 以下に続くメディア批判がじつに刺激的。

 ネットの拾いもの。

≪標準語

 お久しぶりです、お元気でしたか、ご家族にお変わりないですか。

 今何をされているのですか、またお会いできてうれしいです。

 大阪弁

 どや。 ≫