昨日の『幻想と怪奇』と一緒に出てきた雑誌が『幻想文学』33号特集「美と幻妖の系譜 日本幻想文学必携」幻想文学出版局1992年。十八年前か。こちらでは「日本幻想文学 オールタイム・ベストテン」が目玉。ちょっと紹介。一位・泉鏡花「高野聖」、二位・内田百ケン「冥途」、三位・上田秋成「雨月物語」。四位は三作、佐藤春夫「女誡扇綺譚(じょかいせんきたん)」、折口信夫「死者の書」、川端康成「片腕」。以下、江戸川乱歩「押絵と旅する男」、坂口安吾「桜の森の満開の下」、幸田露伴「観画談」、夢野久作「ドグラ・マグラ」と続く。まあ、妥当なところか。面白みはない。
投票に参加した文筆家(川村二郎、中島河太郎、矢川澄子、紀田順一郎、奥野健男、天沢退二郎、高山宏、川崎賢子、松田修)たちもそう予感したらしい。高山宏はこう結んでいる。
≪荒俣宏さんの言いぐさではないが、つっ走ってきた団塊世代も心が冷えてむなしくなりだしてきたのかもしれない。曲亭馬琴だ、中里介山だ、虫太郎だ、乱歩だ、柳亭種彦だ、中野美代子だ、中井英夫だ、酒見賢一だ、でいかにものランキングをつくってみたが、いまさら、である。短くて、足元をフラッとさせ、しかも哀切でなければならない。「愛唱」に足るほど短く凝縮されていなければ、もうしんどい。≫
自身、もうしんどいとボヤキながら、中断していたトーマス・マン『魔の山』の読書を再開。高山宏は世阿弥(謡曲)「松風」の選出理由に≪半ば馬鹿にしていたユングを本気で読むきっかけになったなんて、≫と書いているが、『魔の山』第六章「雪」にこんな一節。
≪夢は、自分の魂からだけでなく、それぞれに違ったものであっても、無名で共同で見る、と己は言いたい。己はその一小部分にすぎない、大きな魂が、多分己を通して夢みるのだろう、己の場合は己なりの形で、その大きな魂がいつも密かに夢みていることを、──その魂の青春、希望、幸福と、平和などを……それから血の饗宴を。≫高橋義孝・訳
ユングが「元型」(人間の心の世界には個人的無意識と普遍的無意識という 二つの層が存在し、後者は広く人類に共通であり、そこに元型が存在すると仮定した)という考えを提唱したのは1919年 。「魔の山」の執筆期は1913年から1924年。共時性を感じる。