都市のコスモロジー

 13日(木)は休館します。

 安藤信哉の絵を撤収、収納。晴天のせいか、気持ちよく進む。午前中に完了。

 オギュスタン・ベルク『都市のコスモロジー 日・米・欧都市比較』講談社現代新書1993年初版を読んだ。この前読んだ『日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代』が概説とすれば、こちらは各論に当たる。どちらもこの新書のための書き下ろし。都市(日本では特に東京と京都)について突っ込んだ論考がされていて、じっくり読み込まないと理解が難しい。彼自身、思索が発展途上にある。だから論述が生々しい。

《 モダニズムによって立つ建築家や技術者は都市を建設することができた。しかし彼らは都市性を生み出すことができなかったのである。》25頁

《 この観点から分かることは、一般に都市のモデルをそのまま移し換えても、それが都市の都市性を向上させることにはつながらない、ということである。都市性は各都市に内在する論理から必然的に生まれるものでなければならない。》 74頁

《 機能的都市計画において、都市はまとまった形態であることをやめる。外部から自身に向けられた視線、形態を見ることに美的歓びを覚える視線をもはや前提としない。むしろ逆に、そのような視線を転じさせようとするのだ、とも言えよう。/これはまさしくル・コルビジェの実現されなかった計画のひとつが象徴するものである。》108頁

《 都市文化は農村文化より自然との直接的なふれあいを求めると言えるかもしれない。》149頁

《 芭蕉の「風流」は紫式部の「みやび」とまったく同じように、「田舎っぺ」には関わりのないことなのである。真に自然を知り、愛するには、都市性に染まりきっていなければならないのだ。》149頁

《 人間は機械ではない。だから何か役に立つことをするだけでは満足できない。何の役にも立たないことをするのは、人間にとって有益であり、必要ですらある。》177頁

《 このように二重の再検討を受けると、建築と都市計画におけるモダニズムの概念的な基盤は土台から掘り崩されてしまった。空間は絶対的なものではなく、場所は中立のものではない。したがって居住ということに関して、場所的な主観性を超越する、いわゆる客観性に基づく普遍的な規則を定めるのは意味のないことになってくる。》205頁

《 ところがさまざまな点で明らかになったのは、ポストモダニズムモダニズムのもっとも明瞭な原則に対する表面的な反応にほかならず、その根本的な動機づけを革新したりはしなかったということである。根本的な動機づけは、依然として人間による建設を場所の拘束に対して自立させようとするものだった。》206頁

《 場所的なコンテクストへのあらゆる連関を断ち切ったのちには、もはやその建築の固有の本質を、自己否定の形で破壊するしかない。そして自己否定とは、根本において、モダニズムに関連してすでに注目した否定の力学を別な形で追求することにほかならないのだ。》208頁

《 わたしたちは場所が意味を持つような都市を必要としているからだ。それも象徴的なものと生態学的なものを結びつける強い意味を持つ都市である。》219頁