『空間へ』九(閑人亭日録)

 磯崎新『空間へ』美術出版社1979年8版(1971年初版)を少し読む(時間がなかった)。

《 混沌とか不確定な事件の連鎖などと称したものを、情念といいかえてもいいではないか。情念が都市空間を埋めつくしていく情況は、文化大革命、ヒッピー、 キャンパス占拠とあらゆる場所で氾濫している。 》 「1968」 406-407頁

 「凍結した時間のさなかに裸形の観念とむかい合いながら一瞬の選択に全存在を賭けることによって組立てられた《晟一好み》の成立と現代建築のなかでの マニエリスト的発想の意味」という長い題の一章。親和銀行本店の白井晟一の設計について。

《 古今東西の諸什器や家具や書院にいたる雑多な混淆が、ここには存在するのだが、そのすべては、まさに帝王のような絶対性をもったひとりの個人の《眼》から ひきだされ、ひとつの群をなしているものばかりなのである。 》 409頁

《 それはルネ・ホッケ流にいえばマニエリスムの世界である。 》 415頁

《 白井晟一のたえざる関心の中核にある道元の言葉を借りれば、「時は飛去する」ものではなく、すべての存在に内在して不連続に生滅しているのだ。 》 415頁

《 彼にとって、様式は外在するから採用したものではなく、瞬間瞬間の選択の際に彼の内部にひらめいた観念の投影物なのだ。それは論理ではない。訓練された肉体の 瞬時の応答である。そのときまさに時間は凍結する。応答の集積によって導かれる世界が、彼の宇宙である。その宇宙はそれゆえに、この建築に賦与された観念自体だと いってもいい。 》 416頁

《 彼にとって、建築とは彼の内部の観念の現実化なのである。 》 419頁

《 その物体相互の、非連続なかかわりあい、そこに散らされるきしみあった火花こそが、彼の意図する想像された宇宙そのものの構成なのだ。 》 420頁

《 すなわち、この建築、いや白井晟一のすべての建築は、彼がギリシアを、ルネサンスを、ロマネスクやバロックを、そして日本のさまざまな古典の世界を、 さまよい歩いた軌跡そのもの、その全過程とのみ対応するのである。 》 421頁

 静岡市の芹沢けい介美術館を訪問して、展示品はさておき建物の独特な重厚さに目を惹かれた。白井晟一の設計。そして岡崎乾二郎『抽象の力』亜紀書房2018年だ。 その第III部 メタボリズム-自然弁証法』は、白井晟一論が主軸。ここでは親和銀行本店について写真入りで論及されている。磯崎新岡崎乾二郎、なるべく早く改めて じっくり読み較べてみたい。そんなことばかりだ。

 十時前、台湾から源兵衛川を視察に来た十人ほどを、グラウンドワーク三島の小松理事長と一緒に案内。川の壁面の造作、用水分岐扉など専門的な質問が出て、嬉しい 受け答え。昼食を挟んで午後二時に私は所要で離脱。三つの用事を済ませて午後九時半帰宅。ふう。無事すんでやれやれ。