空白・余白・虚空という補助線

 昨日取り上げた門井慶喜『天才たちの値段』にこんなくだり。

《 そのものずばりではないか……と、今になれば太い直線を引くこともできるけれど、あんな西洋画の調査の依頼者と、こんな涅槃図さがしの依頼者が同一人物だとその時点で気づくのは、犬と鯨がおなじ哺乳類と気づくよりも難しい。 》 「早朝ねはん」

 現物に対面して、理由がわからぬまま心に強烈な印象を刻まれた作品に、雪舟水墨画『破墨山水図』、アルベルト・ジャコメッティのか細い彫塑像、そして川村記念美術館に展示されている、マーク・ロスコの『シーグラム壁画』シリーズの一点がある。

 これらがなぜ心にかくまで深く刻印されたのか。その理由を知るには《 犬と鯨がおなじ哺乳類と気づく 》ことが必要だった。簡単に言えば、三つの作品には、「空・白・虚」を味方につけているという点で共通している。空白・余白・虚空だ。

 『破墨山水図』では、墨の部分よりも空白のほうがはるかに大きい。今は図録で見ているが、実際に見ると、余白に漲る力に圧倒される。墨は余白の従者のように感じられた。雪舟は墨によって、じつは余白の力を描いた。今はそう考えている。

 ジャコメッティのやたらに細い人物像を目の当たりにしたとき、私は震えるような親近感を感じた。ロダンたち先行する作家の彫像には重苦しいなあという感想をもったが。あり得ない細さなのに、細いことへの違和感はまったく感じなかった。今では像が空気をまとっている、と思う。空気すなわち虚空を身につけている。像は、その周囲の空気=虚空を顕在させるための一手段なのだ。手をペタペタと押しつけてできたような凹凸のある像。その凹凸と外界との細やかで微妙な接触。そこから生まれる周囲の空間=虚空を取り込んで味方につけている。

 マーク・ロスコの壁画絵画では、ある作品の、二色の色の交わる(ギザギザ?な)部分に惹き込まれた。この色の交わるこまごまとした接触面こそが、彼の描きたかったものであり、そのために、巨大な色面の領域=空白を必要とした。『シーグラム壁画』を頂点として、作風はその後急速に形骸化していった。

 三者とも大きな平面(空白・余白)、空間(虚空)を味方につけることを意識的にか無意識にか心がけたゆえ、おそらく想定以上の成功を得た。手がけたものよりも手がけなかったもの(空白・余白・虚空)の重要性。将を射んとすれば馬を射よ、の諺が浮かぶ。

 画家ではない知人のA4版の紙に描かれた、いつしか出来上がっていたという粘菌の触手のようなペン・水彩画を見て、描かれたものの外の、その余白に一層の魅力を感じた。余白を無自覚裡に味方につけている。輪郭で区切られた描かれない空白の魅力。そこに時代の変化の兆し、萌芽を直感した。デッサンの習練だけからはまず生まれないだろう絵画の辺境。それは、五感を全開にし、自然の水火土風に深く感応する生活の中からのみ得られるのかもしれない。描くことは、じつはまず深く感じること……。

 ネットの拾いもの。

《 〈「次」に読まなきゃいけない本〉がいっぱいある、っていう状況はなんとかならんかな… 》

《 教訓。本を処分すると後で大きなしっぺ返しあり。 》

 周囲を見回す。