閑人亭日録

『運命論を哲学する』九

 入不二基義森岡正博『運命論を哲学する』明石書店2019年初版、「第5章 再応答──あとがきに代えて 入不二基義」を読んだ。

《 「現に」という「力」としての現実性のことを、私は「絶対現実」と呼んだ。また、その偏在的に働く力に貫かれつつ、特定の内容を持つことによって認識されたり 体験されたりする現実を「相対現実」と呼んだ(たとえば「現にソクラテスは哲学者である」は相対現実である)。さらに、「現にピアノを弾いている」という現前的な 現実とは違って、「現にピアノを弾ける(その能力がある)」という現実は、潜在性を伴う現実である。「現に」という力は、その潜在と現前の両者を貫いて偏在的に 働いているが、その「現れ方(形姿)」を変える。すなわち、能力は発揮され、潜在は顕在化する。それは、「現に」という力(絶対現実)が、潜在的に作動する姿から 現前的に作動する姿へと、その現れ方(相対現実)を変化させることに等しい。「絶対現実」は、さまざまな「相対現実」として現れるし、さまざまな「相対現実」の 間を変転する。 》 273頁

《 森岡は、「現実」を「もの」的に捉えているけれども、私は「現実」を「力」の作動として捉えている。 》 286頁

《 「現実」は、「もの」や「世界」ではなくて、それらを貫いて働いている「現に」という「力」である、と私は考えている。「現に」という力自体は無内包である から、私が考える「力としての現実」は、外延的な領域でないだけでなく、内包も持たない。 》 287頁

 じつに熱い論述だ。知的興奮。しかし理解には程遠い。だからこそ面白い。こんなすっ飛んだ凄い思考がある。ま、一読しただけでは理解は無理無理。時を置いて 再読だ。ところで176頁の「*6」、”組しない”は”与しない”ではないかなあ。些末なことだ。ふう。

 朝、源兵衛川中流、三ツ石神社横の茶碗のカケラとガラス片を拾う。対岸の常林寺の塀の裏側一坪ほどの空き地にヒメツルソバの群落を見つけてしまう。引き抜いて 川辺に積む。ゴミ拾いを終えて帰宅。ゴミ袋を置き、土のう袋を持って引き返す。袋二杯分。重いわ。帰宅。やれやれ。一汗。コーヒーが美味い。
 午後、友だちと沼津駅からバスに乗り、芹沢光治良記念館の牧村慶子展初日へ。展示企画の勝呂さんとしばし談笑。バスで沼津駅へ。そのバス路線の、ここを走るの? という細い道を行く。これで一方通行じゃないとは。そして曲がる曲がる奥の細道。これだから路線バスは面白い。
  https://www.city.numazu.shizuoka.jp/kurashi/shisetsu/serizawa/tenji/index.htm
  https://www.city.numazu.shizuoka.jp/kurashi/shisetsu/serizawa/access/index.htm

 ネット、いろいろ。

《 安倍総理が、4月30日の天皇陛下の退位礼正殿の儀で「天皇皇后両陛下には末永くお健やかであらせられます事を願って已みません・・あらせられます事を願って (已)いません」とやってしまった。これでは意味が逆。問題は、官邸HPから映像削除したこと。潔く字を間違えたこと認め不見識を謝罪せよ。 》 一水会
  https://twitter.com/issuikai_jp/status/1125203149138956293

《 おそらく新天皇が皇太子時代に繰り返してきた「水の日本文化論」が水道民営化法案などなかったかのようにどこかの局面で安倍の「美しい日本」2.0みたいに 浮上してきて、そこにトンデモでなくアカデミックな若手歴史学者が合流するのではないか。新天皇歴史学者であることの政治性は考えておくべき。 》 大塚八坂堂
  https://twitter.com/MiraiMangaLabo/status/1125936738394955781

《  なお、国上寺ではツイッターなどSNSで炎上してしまった書き込みを公式サイトにて無料で供養する「SNS供養」も行なっています。
  かなり攻めてるお寺です。  》 五十嵐麻理
  https://twitter.com/IgarashiMari/status/1125323809089658880