「管見 よそ人三島見聞記」(閑人亭日録)

 三島市主催『文芸三島』に応募した拙文「管見 よそ人三島見聞記」の落選通知が届いた。 ここに公開。

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  「管見 よそ人三島見聞記」   越沼 正

 ニ◯一七年八月十二日(土)、テレビ東京の番組『出没!アド街ック天国』は特集三島。その時のナレーション冒頭は「熱海と沼津に挟まれた地味な街三島」。 おいおいと呆れたが、ま、他所の人からすればそんなものだろう、と思い直した。広重の木版画に描かれたように、江戸時代から一応名の知られた宿場町ではあった。 が、地味かあ。では、三島を訪問した文人墨客がどんな見聞記を残しているのだろう、と思った。あまりに古いと気が滅入るので、身近な二十世紀後半、小生の管見の 及んだ範囲から拾ってみた。と宣言していて最初から外れてしまうが、前段ということで、小杉未醒『漫画と紀行』博文館明治42年(1909年)五月廿八日発行、収録 「明治四十一年正月」と記された「伊豆絵詞」から。

  大仁より汽車乗つて三島へ行く、野は黄昏て山は山焼き火が赤く、煙は靄となつて夕映の空に棚曳く、明日越そうと云ふ箱根の山にも火が見える、川委蛇(かはゐだ) として山丘(さんきゅう)をめぐり、山丘多くは史中のもの、身は源平盛衰記の只中を行くのだ、曰く北條南條、曰く狩野川、曰く蛭ヶ小島、曰く韮山、曰く黄瀬川。

  三島の宿は梶屋、神社の隣り、家好く人懇ろで温かく寛(ゆるや)かに寝たあくる朝は箱根を越すと云ふに雨になつた、是(これ)で一人なら無論相当の理屈をつけて 汽車で帰る、此の二人となると、寧ろ雨も亦好いなどゝ云ひ合ふ事になる、そこで傘を買ひ油紙を買ひ、雨人君の乾板(かんぱん)は小包で送り、鼻唄で箱根にかゝる。 笹原の宿に上り着いてとある茶屋に休むと、古看板に[伊豆美はらし名所 桜屋]とある、此の古看板の一つに昔の箱根が浮んで見える、更に上る、雨いよいよ烈(しげ) く霧深く、五六丁四方を見得るばかり、其の霧の中から坊さんが一人降りて来た。寒村が道を挟んで雨の下にある、家と家は、雨ふる毎に、照る毎に、日に日に 土に近づくばかりであらう。暗く寂びた家毎に、団扇の骨を剥(けづ)つて居る、竹の屑が生新らしく、古い軒下に散つて居り、或は炉の中から、フスフスと湿つぽい煙を 出して居る。

 場面は歳月を超えて戦後。

  三島から伊豆箱根鉄道に乗った。車内は学生が多かった。
  (中略)
  電車は遅く、停車駅は多かった。大仁まで三十分足らずだが、気の遠くなるような長さに思えた。

 泡坂妻夫『乱れからくり』幻影城一九七七年刊の逃避行の場面。遅いかあ。このミステリは日本推理作家協会賞受賞作。映画にもなった。

 汽車旅があれば車の移動もある。

  三島大社とその周辺が、源頼朝の縄ばりであったことは、国立劇場上演の「大商蛭ヶ小島」のポスターが、境内に貼られていることで、察しがつく。
  (中略)
   宝物館には、長さ三尺五分の大太刀、源頼朝の下し文(くだしぶみ)、石器、土器、古代梯子、鏡、笛、大高源吾の詫証文。千両箱やら、関所手形やら、 小田原提灯やら、徳川時代の羽子板やら、明治天皇御使用のオン箸等。大サンショウウオまで、めったやたらとかき集められている。

 と、陳列場の記述が続くのは、小説家武田泰淳『新・東海道五十三次中央公論社一九六九年刊。これは奥さんの運転で行った道中記。毎日新聞に一九六九年に 連載された。小生は当時読んでいた。三嶋大社境内のお茶屋の絵が記憶にある。
 汽車、自家用車と来ればお次はバス。

   芦ノ湖からの箱根登山鉄道バスの最終バスを、終点の三島駅前でおりると、ぼくはぶらぶらあるきだした。三島駅をうしろに右てにいくつか飲屋がある。 だが、本格的な飲屋街のようではない。
  (中略)
   三島で飲むのはじめてだ。三島は、おもったよりもにぎやかな町だった。映画館もある。にぎやかな繁華街の通りをあるいてくると、右てに、バーやスナックなどの ネオンが見える通りがあった。そんな路地が二本はあっただろう。
   その通りにはいり、しばらくいくと、よこにほそい路地があり、うすぐらい路地だが、飲屋らしい飲屋が、一軒ぽつんといった感じであった。
   だが、まだ偵察をしたほうがいい。路地をぬけ、右にまがり、バーやスナックのネオンがとぎれるところまでいくと、川があって、川のむこうに、古風なわりと 大きな旅館が見えた。右ての通りにはまだ、バーやスナックがある。
  (中略)
   この飲屋があるあたりは三島市の本町(ほんちょう)というところだそうだ。トーバリを焼いてもらう。
  (中略)
   この飲屋の名は「徳兵衛」、カウンターのうろの柱にかけてあった衛生責任者という札に××徳子と書いてある。ママの名前の徳子が徳兵衛になったのか。

 つづいて飲屋の名前がぞろぞろ出てくる。「ばしゃ山」「みどり」「ZERO」「博多」。翌日。

  三島田町という駅で、閑散とした駅だったが、駅前にバスがとまっており、うれしや、行先が沼津になっている。

 小説家の田中小実昌『コミさんほのぼの路線バスの旅』日本交通公社一九九六年刊。初出は『小説現代』一九八二年一月号。小生の知っている店はない。往事茫々。 しかし、この川は源兵衛川だ。

 以上の記述はどれも、三島を軽く通り過ぎていった感がある。もう少し突っ込んで見聞してほしい。そこに出現したのは『路上観察 華の東海道五十三次』文春文庫 ビジュアル版一九九八年刊。執筆は路上観察学会。メンバーは赤瀬川原平藤森照信南伸坊林丈二松田哲夫錚々たる人たちだ。彼らの視線の先にあるものは。

  ゾウさん、ゾウさん、お鼻がかゆいのよ(赤)
  鼻が長いばっかりに、滑り台にさせられて……。
  子供たちのお尻がくすぐったくて、万年アレルギー性鼻炎
  おかげで鼻がこんなに腫れちゃって、ゾウさん、ゾウさん、お鼻がかゆいのよ。

 最初に紹介されるのは、白滝公園のゾウさん滑り台。商店の看板なども紹介されているが、大半は今はもう無い。「擬木趣味」で紹介されているのは、三島市では 擬木電柱、擬木歩道橋、老木に敬意を、の三点。これらは健在。「濡山水」(赤)は、三石神社の横を流れる源兵衛川。

  大水のとき、川底が掘られないようにするための小石のバリケード。結果として、「枯山水」ならぬ「濡山水」の風情を生ぜしめている。

 この取材は一九九七年。ニ◯一九年の現在から見ると石はすごく減っている。バリケードは流されたか。

  妙法華寺の帰りの車窓から竹倉温泉はその気ならみえたはずである。それは、三島駅からそのつもりで竹倉温泉行きのバスに乗ったときに分かった。
  (中略)
  おばあさんのいう通り、なるほど白く濁ったような鉱泉湯がだぶだぶしている。むしろ泥湯に近い。浴場のガラス窓の外は一面の田んぼだった。トンボがとんで コオロギが鳴いている。田んぼのつきたところが山裾で、この山が妙法華寺のほうに続いているのだろう。泥湯はかなり熱く、あがったあとも身体中がどろどろしている 感じだった。それがまた、「効く」という実感的錯覚をかきたてもする。

 種村季弘(すえひろ)『晴浴雨浴日記』河出書房新社一九八九年刊、収録「竹倉の富士山」より。二軒あったが、今は一軒になってしまった。

  あるとき、静岡県三島市の市役所員がやって来て、秋に楽寿園という市立公園の庭園で菊人形祭りをやるが、アトラクションに何かやってほしいというのです。 そこでその年は秋の三ヶ月、次の年からは春と秋に三ヶ月ずつ、三年連続で人形劇と影絵劇の両方を上演しました。
  ニ、三百人くらい入るよしず張りの小屋でやるのですが、野外劇場のような広い会場ですから、オルガンを一台置いて、その生演奏に弾き語りを加えて上演しました。
 (中略)
  さらに人形劇のなかに影絵を組み込んだり、影絵劇のなかにも人間の影を映し出したりして、影絵劇とか人形劇の枠にもとらわれない自由な発想で、思い切った上演を しました。アドリブのおもしろさを知ったのも、この三島の公演でした。
 (中略)
  三年間の三島での公演は、ほんとうに木馬座の大きな財産になったのです。

 影絵の大家藤城清治の自伝『光は歌い 影は踊る──藤城清治の軌跡』佼成出版社ニ◯◯四年刊にあるが、巻末の略歴に掲載されていない。「一九六一年 等身大の ぬいぐるみ人形劇を創案」とあるからその頃だろう。三十七歳。楽寿園はエライ。

 小学生の頃、同級生が清住町に住んでいた。一度彼の住まいを訪ねたことがあった。なんかスンゲエでかい建物で、「ヘッ」と仰天。なにせ玄関を入るとすんごく広い 土間。村岡荘というアパートだと後年知った。そこが遊郭だったと後日知った。大学生の頃周囲を歩いて廻った。解体すると聞いて玄関上の巨大な鬼瓦を欲しいと 思ったが、置き場所がなくて断念。歌舞伎座みたいだったからなあ。それからずっと更地に。売春防止法施行後村岡荘という低所得者向けのアパートになったことも。 そこがミステリ作家都筑道夫の小説に使われたとは。都筑道夫『七十五羽の烏』光文社文庫ニ○○三年刊にはなんと山藤章二による村岡荘の絵まで紹介されている。 このミステリの舞台の取材に来訪。山藤章二は彼の絵に書いている。

   三島 清住町 村岡荘
   今回の取材旅行中の
   白眉! 圧巻!
   大収穫!

 絵には「国宝級」の文字も。感激のほどが知れる。今は写真で偲ぶのみ。

  三島は川の町だった。川といっても小さな疏水程度のものだったが、どこを歩いても、きらきら流れる水が目に入った。道路の下をくぐって左に現れ、 そこで東から下ってきた別の川と合流し、その分、大きな流れになって西へ向う。天気のいい朝は、あちこちへ走る川の面(おもて)がお日さまに反射して、 どっちを向いても眩しかった。町じゅうに鏡の欠片(かけら)が撒き散らされたようだった。──入り組んだ運河に見えなくもない小さな川たちが、元はと言えば 《千貫樋》と呼ばれる、この地方の灌漑治水のために造られた疏水だと知ったのは、三島の小学校へ上がってからだった。

 久世光彦(くぜ・てるひこ)『女神(じょしん)』新潮社ニ◯◯三年刊の一節。三島で育った坂本睦子を描いている。帯の惹句は「昭和文壇の裏面を生きた女  坂本睦子を描く傑作長編」。大岡昇平『花影』のモデル。彼女の墓は栄町の林光寺にある。

   新幹線で三島駅を通るたびに
  「ああ、もっと勉強しなくては」と 子犬は思う

 で始まる荒川洋治の詩「心理」(詩集『心理』みすず書房ニ◯◯五年刊)は、続いて。

  昭和二十年 終戦の年の十二月
  静岡県三島市に「庶民大学」の序章は生まれた
  講師は三十一歳の
  東大助教丸山真男

 詩集『心理』はニ◯◯五年度の萩原朔太郎賞を受賞。

 ミステリでは三島はどう描かれているのだろうか。一例を。津村秀介『三島着10時31分の死者 水戸の偽証』講談社ノベルスニ◯◯◯年刊。

   刺殺現場となった古いアパートは、三島市大宮町、三島駅南口から徒歩十分足らずの場所だった。捜査に当たったのは、静岡県警・三島東署である。 三島東署は、古いアパートの東側を流れる、大場川沿いを南へ下った地点にあり、修善寺へ向う伊豆箱根鉄道の小さい駅、三島二日町に近かった。
   署の東側には農協、西側には間眠(まどろみ)神社が建っていて、市の中心部からは、やや離れている。

 なんか突っ込みたくなる描写ではある。三島東署だからなあ。巻末には断り書き。

  本作品はフィクションであり、登場人物、団体など、実在するものとは一切関係ありません。

 月刊『ひととき』ウェッジニ○一三年五月号、池内紀(おさむ)「夏前に、富士の麓めぐり」より。

   源兵衛川は三島市街を抜けていいく。広小路界隈は旧色街のなごりをとどめており、そちらの分類学も気になったが、昼のひなかのこと、心をのこして素通り。 いたずら坊主がそのまま大人になったような人のお尻にくっついて、川辺をゆるゆると下っていった。

 いたずら坊主がそのまま大人になったような人、とは小生のこと。はあ。そんな私は四十年前の新聞記事を保管している。朝日新聞一九七九年五月十日(木)夕刊の記事 「視点発掘 緑と水の三島」。その一部と結び。

   「観光名所」は少なくないが、観光客は伊豆半島、箱根、熱海、富士へ、と素通りが多い。だが、地元に別段くやしがる風は見えない。

   旧東海道のメーンストリートのアーケードがあったりなかったり。高さも不ぞろい。これが三島気質なのか。

 この結びには「オイ、コラ」と言いたくなったが無記名記事。細かく描かれたイラストには源兵衛川の名は無い。源兵衛川を有名にするぞ、と奮い立たせた記事だった。 それから四十年。ここまできた。感慨深い。

  追記
 加藤郁乎(いくや)の句集『えくとぷらすま』中村書店一九六ニ年刊に「影絵 大岡信への招待」という章がある。その一句。

  ミシマから見る不二にホクサイの地中海

 加藤郁乎は三島へ来たことはない(はず)。

  付記
 三島市観光協会の依頼でまとめられた『三島市の観光診断』(日本旅のペンクラブ 毛利好彰)一九八七年は今読んでも参考になる。

  アーケードひとつでも街の個性を作れるのである。

 どこかの新聞社の記者に読ませたい。

  補記
昭和後期、ドブ川と化した源兵衛川は、平成になり、市民・行政・企業の協働により清流を取り戻した。平成の名水百選、疏水百選、世界かんがい施設遺産、 世界水遺産に選定された。 (了)

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 私は源兵衛川を愛する会会長。来月一日は視察の案内。取材だったかな。

   ネット、うろうろ。

《 連載! 岡和田晃×倉数茂「新自由主義社会下における 〈文学〉の役割とは」 》 シミルボン
  https://shimirubon.jp/columns/1696809

 四回にわたる対談。対談の二人もそうだが、名前の上がった人の大方が知らない人。同じ時代を生きてきて・・・こうも関心がずれるとは。

《 明治の女学生 自転車通学奮闘記 /自転車文化センター学芸員 谷田貝 一男 》 BCC
  http://cycle-info.bpaj.or.jp/?tid=100113

 この記事、興味深く読んだが、反響を呼んだ。
  https://b.hatena.ne.jp/entry/cycle-info.bpaj.or.jp/?tid=100113

 本棚から小杉天外『魔風戀風(上・下)』岩波文庫1950年6刷、1951年6刷を取りだす。下巻巻末の「その頃」、その一節。小田原海岸に居を移す。

《 (前略)主として、當時の文藝批評家から與えられた刺戟が、この寂しい海岸移住と云ふことを決行させるに到つたのである。焦慮(あせ)つて創作をしたところが 駄目だ、何人をも動かし、いつの時代にも讀まれ、批評家などゝ云ふ弄筆業者には、手も足も達(とゞ)かぬ高壇に位置する作を成すでなければ、小説家としての 存在價値いくばくぞや、此うした奮慨をも私かに抱いて東京を棄てた私であつた。 》

《  生誕記念
  高木彬光で好きな長編
  1.人形はなぜ殺される
  2.呪縛の家
  3.刺青殺人事件
  4.黒白の囮
  5.破戒裁判
  6.白魔の歌
  7.検事霧島三郎
  8.黄金の鍵
  9.成吉思汗の秘密
  10.ゼロの蜜月
  まあ、6以外は普通でしょ? 》 猟奇の鉄人
  https://twitter.com/kashibaTIM/status/1176621724525219842

 『人形はなぜ殺される』、いいねえ。以下彼の”好きな長編”だからな。

《 N国市議に勝訴したライター「スラップ訴訟は民主主義をぶっ壊す」 》 弁護士ドットニュース
  https://www.bengo4.com/c_23/n_10162/

《 この国は先進国と言うより世界から取り残された衰退国になっている。 》 Akane
  https://twitter.com/SweetAkane/status/1176484589000257536