『新・空海論』三(閑人亭日録)

 竹村牧男『新・空海論』 仏教から詩論、書道まで』青土社2023年6月30日第1刷発行、「第三章 最澄との交流と別離」を読んだ。

《 平安時代の日本仏教の双璧として、最澄空海がいます。最澄比叡山に依り、天台宗(ただし禅・密教・律を抱合する総合仏教)を開創しました。空海は東寺や高野山に依り、真言宗を開創しました。比叡山からは、後に法然親鸞道元日蓮らが出て、それぞれの宗を開いており、まさに日本仏教の母胎となりました。空海真言宗からは、御室派、大覚寺派、醍醐寺派等の古義各派や、智山派、豊山派等の新義各派が分流し、全体として日本の仏教界に隠然たる勢力を有しています。最澄空海は、まさに今日の日本仏教の本源と言えるでしょう。
  その最澄空海とは、ともに唐に渡り、帰朝後は互いに一時、緊密な関係を有していたことは、よく知られていると思います。それが周知のように、いつしか袂を分かち、それぞれ自らの信じる道を行くようになるのでした。 》 98頁

《 最澄の生涯は、七六七~八二二年、空海の生涯は、七七四年~八三五年です。(引用者・略)両者の交渉がありえたのは最澄が亡くなる八二二年までのせいぜい十数年、実際は弘仁七年(八一六)からほとんど交流がなくなってしまいますので、八〇九年から数えれば、およそ六、七年ほどということになります。その短い間にも、いろいろな意味で濃密なドラマがありました。 》 99頁

《 なお、最澄空海の思想的立場の相違点は、仏教全体における『法華経』の位置づけの問題のみでもなかったと思われます。その一つは、たとえば華厳思想への評価の問題です。最澄は華厳一乗の仏教を高く評価するも、釈尊最初の説法であって、最後に説かれた『法華経』こそ最高の教えであるとの理解でした。一方、空海は、「真如不守自性」を説き、事事無礙法界を説く華厳は、天台よりさらに上の仏教であると認識していました。密教はその華厳よりも上だとするわけですが、そのように、顕教全体の評価も、実は最澄空海とでずれていたのが実情です。 》 120頁

 最澄は秀才型。空海は天才型かな。