『新・空海論』四(閑人亭日録)

 竹村牧男『新・空海論』 仏教から詩論、書道まで』青土社2023年6月30日第1刷発行、「第四章 空海の著作の概要」を読んだ。

《 空海の著作でもっとも早いものは、『聾瞽指帰』です。これは延歴十六年(七九七)、空海が二十四歳の時の著と見られています。 》 142頁

《 では、儒・道・仏三教のうちで仏教がもっとも優れていると判断した背景には、どんな考えがあったのでしょうか。
  その一つには、深い無常観があったのだと思われます。この世は頼りにならず、五常・三鋼等の倫理によりこの世での成功を求めたり(儒教)、恬淡とした思いで無難に過ごす幸福を得たり(道教)ということでは、確かな自己の意味が得られないというのです。 》 143頁

《 次に、仏教の世界観は、他にくらべてきわめて奥深いものがあると言っています。仏教の説くところは来世にもわたっており、今生の事のみを説くまでの儒教道教に勝るものがあると見ていたことは間違いありません。また、人間存在や世界の分析究明において、儒教道教には比較にならないほど精緻で深いものがあると判断したいたこともあったでしょう。 》 145頁

《 さらに、自利のみでなく利他も考えていること、それも一切衆生の利益・救済を考えているところに、深い共感を抱いたようです。「自他兼ねて利済す、誰れか獣と禽とを忘れむ」とあることを、見逃すことはできないでしょう。
  こうして、空海は世塵を脱して、自己の究極の安心を実現す仏道の卓越性を示すのでした。 》 146頁

《 空海密教の奥義を究明したいと願い、ついに入唐して恵果阿闍梨に師事し、密教の大法を余すところなく相承したのでした。帰朝後、密教の教えを明かす著作をいくつも提示しています。 》 147頁

《 大同元年(八〇六)、帰朝した空海は十月二十二日、『御請来目録』を作成して朝廷に提出します。帰朝した九州より都に上る高階遠成に託したのでした。 》 147頁

《 その後、空海は『弁顕密二教論』二巻を著しました。
  この著作は言うまでもなく、密教顕教と何が違うのかを明らかにしたものです。同書は、説法する仏身・説かれた教えの内容・成仏への遅速・受ける利益の勝劣、といった観点から、密教の特質を説いているものです。すなわち、密教独自の立場である果分可説、法身説法、速時成仏等を論じたものです。 》 148-149頁

《 弘仁十年(八一九)頃か、空海は『即身成仏義』、『声字実相義』、『吽字義釈』等を著しました。 》 153頁

《 こうしてみると、『即身成仏義』は、密教によればこの世の内に成仏できることを示すと同時に、あらゆる諸仏・諸尊・諸衆生はもとより成仏していた、その仏の智慧に基づく三密は相互に円融無礙の相応渉入しあっていて、加持しあっている、という密教的世界観を描いた書物であると言うべきでしょう。それは密教が説く自内証の世界の原風景であると言うべきです。 》 159頁

《 では、これに対し『声字実相義』は、言語をどのように捉えているのでしょうか。
  まず、釈名の説明で、ほぼ伝統的な言語観を説明するとともに、六合釈(サンスクリット語における複合語の解釈法)に基づき、「声字実相」とは「声即字」であり、かつ「声字即実相」と理解するのが深い理解だと示します。(引用者・略)普通の言語は、それぞれぞれの地平で一義的で、だからこそ、コミュニケーションも可能ですが、密教ではすでに一字(母音・子音+母音のおのおの)の地平においてさえ無辺の義理を有しているのであり、それが密教の言語観の中心的なものとなっています。
  また、ここに「声・字・実相」と三密との関係も説かれています。 》 162頁

《 この説からすると、等正覚=実相=身密、真言=声=語密であり、言名=字で、これは真密であることが推察されます。そうすると、「声・字・実相」は、実は三密のことであるという解釈を示しているわけです。 》 163頁

《 以上によれば、『声字実相義』は、言語について論じるというより、世界の全体が成立しているところに言語を見るというような、むしろ世界のありようを語っているものと言うべきでしょう。 》 165頁

《 その諸仏諸尊等の三密と諸衆生の三密も、もとより渉入相応しあっているのであり、そこに「法身は実相である」というその実相の世界があります。ある意味で、「声字実相」はそのこと自体を表わしているのです。
  ただし、衆生はこのことを知りません。そこで大日如来は、声字によって、この実相を説いて、衆生を覚醒させます。 》 166頁

 以下、著作の概要が語られる。難解。読んだだけ。