『激しい生』六(閑人亭日録)


 トリスタン・ガルシア『激しい生──近代の強迫観念』人文書院二〇二一年九月三〇日 初版第一刷発行、栗脇永翔(くりわき・ひさと)「訳者解説」を読んだ。

《 「強さ=激しさ」というキーワードについてとりわけ丁寧な説明があるわけでもなく、話はすぐにあらゆる領域に拡散し、ガルシアの文体的な「十八番」とも言えよう──そして翻訳者泣かせの──目的語の「激しい」列挙が続く。訳者として率直な感想を言えば、この箇所を読み始めた読者が幾分か面喰らってしまったとしても仕方がないと思う。 》 188頁

 お前がそう言うか。

《 「延長」においてはすべての事物が「平等」であり、そのあいだで「より多いより少ない」(plus ou moins)ということはない(なお、「plus ou moins」は通常「多かれ少なかれ」という日常言語で、ガルシアは言葉遊びを行っている)。 》 190頁

 変な日本語だと思った。また、頻出する「モデルニテ」という用語が、恥ずかしながら私は知らなかった。「現代性」といった意味のようだ。

《 少し視野を広げれば、「ポストモダン」というのは「近代」に対し「初めて、〔…〕何であれ初めて感じることはもはやできず、すべてを二度目に完遂させなければならないという不可能性を認めた」人類史的経験であるであるとされる。 しかし、このルーチーン的な「強さ=激しさ」の探求としての「初体験信仰」も、いずれはその経験を弱体化させることになる。 》 197頁

 ルーチーンというありふれた英語も日本語(例:きまりきった手続きや手順、動作など)にしてほしかった。

《 そしていずれにせよ、近代の「強さ=激しさ」は失われることが運命づけられているとすれば、求めるべきはまさに、その「近代」というものそのものの外部ということになろう。つまり、「近代以前」ないしは「近代以後」の「思考」に向かって。 》 198頁

 訳者はトリスタン・ガルシアを高く評価しているが、私は彼の他の著書を読んでみたいとは、今は思わない。