『激しい生』(閑人亭日録)

 トリスタン・ガルシア『激しい生──近代の強迫観念』人文書院二〇二一年九月三〇日 初版第一刷発行、「イントロダクション」を読んだ。
 http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b589175.html

《 ますます日常的になる英語風の言い回しによって、傑出した者について、そのひとは「強い=激しい」〔intense〕というと言うことさえあります。強く、唐突に、独創性的に消費したあらゆるものについても、同じように「強い=激しい」と言うことばできます。それゆえ、強さ=激しさは商業的な世界で支配的な語彙と考えられるかもしれません。 》 14頁

《 こうして「美的な強さ=激しさ」は、ゆっくりと、美のカノンを侵食していきました。(引用者・略)もはや、それがあるべきものの観念=イデアに正しく対応しているかに応じて芸術作品の価値が判断されることはなくなったのです。ひとはむしろ、ある作品が鑑賞者に前代未聞の、落雷的な経験を作り出すことを望むようになったのです。 》 17頁

《 それゆえ、近代の美的感覚には、客観的な基準などもはやなく、単に仕方に関する基準があるだけなのです。物事は何でもいい、それが強さ=激しさをもってそれであるのであれば。 》 19頁

《 私たちが望むことができる最良のものは、私たちが最も美、最も真と思うものは、私たちが信じるものは、すでにあるものの強化=激化なのです。世界の激化=強化、私たちの生の強化=激化。これこそが近代の偉大なる考えなのです。確実なことは、この強さ=激しさの考えには、私たちがこれを遠くから観察するとき、救済も英知もないということです。これは別の生や別の世界を約束するものではないのです。 》 24頁

 「1 イメージ──電気が思考に対し行ったこと」を読んだ。

《 こうして人間は二度、神から火を奪うことになります。電気こそが二度目の火だったのです。 》 31頁

《 物質文明が電気に負っているものはよく知られていますが、電気が思考に対し、そして人間の道徳に対し行ったことはさほど問われることがありません。
  ひょっとしたら、最も重要な効果が最も明瞭というわけではないのかもしれません。 》 31頁

《 電気は自然の、そして私たちの自然の抑圧された力の指標でした。この力は飼いならすことができると同時にできず、特定可能であると同時に変わり続けるものでした。つまりそれは、強かった=激しかったのです。 》 38頁

 「2 観念──事物をそれ自体と比較するために」を読んだ。

《 近代の意識の落ち込みの最初の徴候はそのときに姿を見せます。 》 56頁

《 強さ=激しさなき物質と、外側から働きかけ、その効果の内でしか感じられることができない普遍的な力で構築される世界の継承者である西洋文化は、残虐で、ほとんど定義不可能な欠如を感じています。 》 56頁

《 そしてまさしく、この不振からヨーロッパの近代的主体を救い出すようにみえたために、合理主義ではもはやこの世界の事物それ自体のうちには見つけることが出来なくなった強さ=激しさの新たなイメージとして、電気が役立ったのです。 》 57頁

《 そしてまた、いかなる協議もなしに、電気のイメージは強さ=激しさという古い観念に入り込み、強さ=激しさという古めかしい観念は近代のイメージのうちにその本体を得たのでした。 》 58頁

《 以後、「強さ=激しさ」は同時に量の変異を、ある事物のそれ自体との比較の計画を、変化と生成の計画を、純粋な差異を、生物の感覚を説明するものを、欲望を、ある生が生きうるものであることを、量と延長を逃れるすべてのものの価値を、そして電気の煌めきを、意味することになりました。
 近代的な生の原理としての強さ=激しさに関する簡潔な系譜学に着手するならば、私たちの実存を方向づけるこの理想は限りなく抽象的な観念と絶対的に具体的なイメージのあいだに生まれた胎児であり、互いに他方のうちにもう一方の基盤を与えていることに気づかれるでしょう。古めかしい理論的問題に電気の強さ=激しさの生き生きとした側面を与えるために。そして形而上学的で人知を超えた性質としての電気の現実に活気を与えるために。
  こうした結合から、前代未聞の概念が生まれたのでした。 》 59頁

 長崎原爆忌。黙祷。
 きょうも天気は気まぐれに変わる。晴天~突然土砂降り~急に止む、晴天、の繰り返し。晴れ間を見て買い物へ。濡れずにすんだ。