『激しい生』三(閑人亭日録)

 トリスタン・ガルシア『激しい生──近代の強迫観念』人文書院二〇二一年九月三〇日 初版第一刷発行、「5 倫理的な理想──強く=激しく生きること」を読んだ。

《 あらゆるところで商品が、生活費を稼ぐ者たちに生きていることを実感するためにお金を使うよう提案していました。このとき、倫理的な強さ=激しさの普遍化に抵抗していた最後の道徳的内容が吹っ飛んだのです。 》 106頁

《 モダニズムは最も強い精神のドラッグなのです。それは、凡庸さから引きはがされた私たちのあらゆる人間性の想像できないほどの熱狂を約束するのです。もちろん、ひとはこのドラッグに慣れてしまいます。そんなことは問題ではないのです。その容量を増やし、思考によってい一層運動を加速させればよいのです。 》 113頁

《 社会的規範化に抗する絶え間ない競争に参加する強度的な人間は、強さ=激しさを倍化させます。変異は熱狂になり、加速は誇張されたものになります。減少、生の強さ=激しさからの離反の感情について言えば、それはある病理学的な形式を取ることとなります。つまり、鬱病に。
  すべてを強化=激化しなければならないということ、それができないということ、少なくとも無限にエスカレートすること、それゆえ知的かつ生理的なその固有の限界の感情との葛藤に入ること、という結合された感情は自由な世界の個人を不可避的に袋小路に追いやります。維持されるために、強さ=激しさは誇張的な向上を運命づけられたのです。しかし、私たちがより強い何かを感じようとすればするほど、より一層強い何かを感じるということを思うと、強い何かを感じるのは難しくなるのです。 》 121頁

《 自由な世界の規範の批判者たちは、諸個人に自己を統治することを要求するこの統治の形態が、主体をますます強度的な生の形式にまで導くと考えます。 》 122頁

《 私たちが理解したいのは、いかにして、そしてなぜ、ひとはより強く=激しく生きれば生きるほどそうすることができなくなるのか、です。崩壊の徴候の数々は知られていますが、その論理は依然としてぼんやりしたままなのです。 》 123頁

 「6 反対の概念──ルーチーン効果」を読んだ。

《 強さ=激しさの概念があらゆる論理に抗する、あらゆる計算に抗する抵抗の価値を持つとしても、強さ=激しさの論理というものは存在します。そしてこの論理こそが、いかにして、そしてなぜ、その行動の唯一の原理として強さ=激しさの探求を始める有機体ないしは集合が、それを逃れるプロセスに、近代の美学にとってこうした破壊的な逆説以外に出口がないようなプロセスに引きずり込まれるかを説明するのです。 》 125頁

《 強さ=激しさに関するこうした逆説的な論理は、私たちの理性に関わるものではなく、生きているという私たちの感情に関わるものです。 》 126頁

《 知覚がまずはこうしたインパルスから生じるものだとしても、知覚されたものは、もはや、生き生きとした有機体の神経を駆け巡った量化可能な電気のインパルスに還元可能なものではありません。(引用者・略)維持される強さ=激しさとは、いわばある強さ=激しさについての強さ=激しさなのです。そしてこれこそが生きる主体の感覚なのです。私たちの知覚の最初の段階において対象となる量化可能な強さ=激しさがあり、こうした強さ=激しさについての強さ=激しさが、つまり知覚によってその対象に付与された性質に関わる二次的な強さ=激しさが、あるのです。 》 127頁

《 ポストモダンとは、モデルニテのルーチーンに抗する精神におけるひとつの策略だったのです。 》 139頁

《 近代精神がそうしたように、ひとは常に、強さ=激しさの維持のためにあらゆる習慣の破壊的作用に抗し、終わりなき闘争に身を投ずることができます。しかしいま、私たちは強さ=激しさの規範に従う諸個人が崩壊にいたるという容赦ない論理を理解しました。結局、感情においてより多いは、常に、より少ないを生み出すのです。 》 140頁

《 ただ生きる理由を見出すために強さ=激しさに身を委ねることは、その生や思考を実存的な疲弊に送り届けることなのです。これこそが私たちの感性の奥に半分隠された無敵の怪物なのです。 》 141頁

《 これは想像や新規さによってルーチーンを打ち負かしたと考える知的な人間の誤謬なのです。彼は、じきに、根絶やしにしたと考える倦怠を育む以外にすることがなくなるのですから。創造や新奇さにも飽きてしまうよう運命づけられているのです。 》 141頁

《 というのも、私たちの生を導くために強さ=激しさという唯一の原理に身を委ねることによって、私たちはもはや、新しい強さ=激しさへの自らの欲望に強さ=激しさの不在への好奇心以外の選択肢を残すことがないのですから。生の輝かしい力に留保なく身を委ねる者は誰であれ、ルーチーンに追い詰められ、終いにはその強さの消失よりも強いものを何も望むことが出来なくなってしまうのです。絶対的でそれゆえ反対のものを持たないと考えられた強さ=激しさは、結局、その反対物を滲みだすのです。 》 141頁

《 なぜでしょうか? 生があまりに移り気であるために、私たちのうちでは、十分に長い実存の過程で生は終いにはそれ自身の要求に疲弊してしまい、生の否定に興味を持つようになるのです。 》 142頁

 頁をくくると、なんか拍子抜け。

 猛暑日。廊下を熱風が通過。