トリスタン・ガルシア『激しい生──近代の強迫観念』人文書院二〇二一年九月三〇日 初版第一刷発行、「8 反対のイメージ──何かが抵抗する」を読んだ。
《 生と思考のそれぞれの価値に判断を下すのは、生きる限りにおいて、私たち自身なのです。この判定は、人間的な、さらにはより広く動物的な、あらゆる主体の倫理的活動以上の何ものでもないのです。 》 168頁
《 倫理的な生とは、英知的な生でもなく、電気的な生でもなく、救済の探求でもなく、強さ=激しさの自発的な追及でもないのです。それは強さ=激しさに身を投じないことも、そこから解放されることを求めないこともできる生のことです。それはあらゆる言説を横断して曲がりくねる狭い道なのです。 》 173頁
《 こうして私たちは、この探求の最後に理解します。私たちにとって重要な生の強さ=激しさを保持することを想像できるのは、強さ=激しさを思考に対置する限りにおいてであり、思考を強さ=激しさに対置する限りにおいてでしかないことを。 》 176頁
《 感性的な生の幸運とは以下のものです。すなわち、感性において、他のいかなるものにも還元されることがないものなのです。これは何かを感じるすべての親密な宝であり、その諸感覚の真珠であり、それにしか属さないそれの一部分なのです。生きるものの生を持たない普遍的な観察者であることはできないという感情なのです。
その内で、それを生き生きとしたものにするこうした感情を保持しようと努める以上に生にできることはあるでしょうか? 》 178頁
トリスタン・ガルシア『激しい生──近代の強迫観念』、本文を読了。修辞が多くて閉口。栗脇永翔(くりわき・ひさと)「訳者解説」は、明日読む。
午後は天候不安定。降ったりやんだり。午後五時半過ぎ、南の空に雲を背景に小さな虹。ほどなく消えた。そして通り雨。