南條竹則『ドリトル先生の英国』文春新書 平成12年10月20日 第1刷発行を読み進める。
「第六章 世界の友」
《 先生は、人間や動物を、心根や能力でしか評価しない。 》176頁
《 人間も虫も平等に扱うドリトル先生は、人間界の地位も身分も、年齢も、人種も意に介さない。 》176頁
《 西欧中心思想であろうと、植民地主義であろうと、クモサル島の住民としては、自分たちをここまで思ってくれる人のことを悪くは言えないだろう──読者にそう感じさせるのは、ドリトル先生の人柄であり、作者のロフティングの文学の力だ。しかし、その文学の力が誤った思想を正当化することの是非も考えてみなければならない。これは些細な言葉づかいや揶揄(からか)いよりも、ずっと難しい問題である。 》193頁
「第七章 ドリトル先生と聖書の世界」
《 旧世界をソドムとゴモラのごとき悪徳の国と考え、アメリカこそが希望に満ちた「神御自身の国」だと考えるのは、ピルグリム・ファーザーズ以来のアメリカ主義の伝統である。『秘密の湖』の作者は、難しいテーマをもてあました末、こうした思想に解決の道を見出してしまったように思われる。 》210頁
《 彼がこうしたことを書く背景には、アメリカ讃美の念というよりも、故郷ヨーロッパの現実に対する深い絶望があったとみるべきだろう。この作品が書かれていた頃、欧州にはファシズムが荒れ狂い、そして時代は新たな戦争に向かって突き進んでいた。 》210頁
南條竹則『ドリトル先生の英国』文春新書、読了。引用したい箇所はもっとあったが、長すぎるので見送り。これはいい本だ。まことに多方面からドリトル先生物語を照射している。こんな見方があるのか、と感心、脱帽。励まされた気持ち。
午後二時過ぎ、病室へ。三時間近く他愛ない話をしていた。「(インコが)寂しがっているから。またあした。」寒風の中、バスを待つ。夕暮れが降りてくる。電車の中は無言でスマホを見つめる大人ばかり。帰宅する女子高生がいないな、と見渡して気がついた。冬休み。広小路駅を出ると、通りは賑やか。年末のハナ金か。帰宅。暖房をしている暗い部屋の明かりをつける。鳥籠の戸を開ける。部屋を飛び回る。しばらく飛んで籠に入る。