物語

 幸田露伴「二日物語」を読む。雅文調の文章が読みにくいが、鬼気迫る前半の「此一日(このひとひ)」、哀切万感に迫る後半の「彼一日(かのひとひ)」。「彼一日」のほうが、定評どおり優れていると見た。
 雅文といえば今年は「源氏物語」出現千年どか。毎日新聞4日の読書欄「源氏物語」特集で、鹿島茂が翻訳を評している。「簡潔さは晶子訳、情感では寂聴訳」。私は、「素晴らしいが、これでは創作である。」とした円地文子訳で読んでいる。与謝野晶子訳は、読んだ時が若かったせいか、投げ出した。読む年齢はあるものだ。
 同じ読書欄で、巨椋鴻之介禁じられた遊び 巨椋鴻之介詰将棋作品集」毎日コミュニケーションズを、若島正が評している。
「優れた芸術作品は、鑑賞する者に至福を与える。」
 「源氏物語」はその典型だろう。渡辺保の言葉。
「たしかに『源氏物語』は紫式部一人が書いたかも知れない。しかし彼女は現代の私たちの考えるような近代的な個人ではなかった。『源氏物語』は当時の宮廷の伝統が彼女をして書かしめたものであって、中古の宮廷そのものの表現であるその多面性は近代的な現代語訳者の個性を超える危険がある。」
  この指摘から、私は小原古邨や高橋松亭の木版画を連想する。日本画と浮世絵の伝統が、西洋化=近代化の荒波の中で、彼らに近代的自我=個人性を超えた木版画を描かせた。