まれに見る濃霧

 今朝はまれに見る濃霧。ここ三十年見たことのない、遠い昔の記憶以来の濃霧。霧が好き。特に高原の霧が好き。若い頃高原へ行ったのは霧にまかれるため。高校二年の夏、長野県の霧ヶ峰高原でキャンプしたときは、雨が降ろうがワクワクしっぱなしだった。今朝は炬燵。歳だねえ。出かけるころには霧は薄れた。

 英文学者福原麟太郎「文学と文明(抄)」(「現代日本文学大系 97 現代評論集」筑摩書房1973年初版収録)から。

≪これを文明の古さという。それはわれわれの精神構造を複雑なものにしている。たとえば前にもたびたび引合いに出した詩人T・S・エリオットは、彼がわれわれに残した『四つの四重奏曲』という哲学的な詩編──四部から成り、おそらく詩人の若年のおりの傑作長詩『荒地』よりもすぐれている──で、「時」を扱って、「始に終りがあり、終りに始がある」とか「ただ時を通じて時が止揚される」とかと考える。そして、

  「かわせみが矢の如く飛んで、光りは光りに答え、静寂となり、光りはなお回転する世界の静点にある」

 とうたうとき、私の頭をかすめるものは、われわれの詩人北原白秋が、自らの詩風の象徴だとしていたという、

  「行く水の目にとどまらぬ青水沫(あをみなわ)、鶺鴒(せきれい)の尾は触れにたりけり」

 という歌である。私はコトダマということをこの小論のはじめのころつかったが、コトダマの分析力はこの微細な感覚に及んで、泰西の詩人におとらぬばかりか、奇しくも同じ年(一九三五年)にこれが作られているのである。≫

≪コトバは長い文明の中で修練を経て、そのコトダマをみがいて、とらえ得なかったものをとらえ、作り得なかった形を作ってゆく。文学というのはそれだ。≫

 昨日来館された大阪の方からサントリーミュージアム天保山が閉館すると教えられる。目録で古書をよく購入した京都の文庫堂は十月末に閉店。うちはどうだろう。まれに見る濃霧だ。