隔たりはある

 木田元「現代の哲学」講談社学術文庫1995年を再読した。以前読んだときは半分くらいわかったつもりだったけど、今度は私にはよくわからないことがよくわかった。老化か、それとも以前の理解はただの誤解か。その両方かな。ではあっても、じつにエキサイティングであり、スリリングだった。1991年の「『学術文庫版』あとがき」から。ポスト構造主義について。

構造主義の問題意識を引きつぎながら、さらにその批判的乗り越えをはかろうとするこの運動は、実に多様な拡がりを見せ、簡単な要約を許さないところがある。たとえばジャック・デリダの<脱構築主義>は、プラトン以来の西洋形而上学の根底にひそむ二項対立的基礎概念(形相/質料、精神/身体、男/女といった)を内がわから掘りくずし、そこに見られる位階秩序を解体するとともに再構築しようとするものであり、西洋的思考の大前提となっている<同一性>志向を根底から打ち砕こうとする。一方、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、レヴィ・ストロースらの構造主義が構造の自立性と完結性を重視して、その静態的分析に終始するのに対して、構造の動態性と流動性とを主張する。彼らは、現存のシステム(たとえば資本主義社会)を他のシステム(たとえば社会主義社会)によって代置しようとする展望はいっさい拒否し、現存のシステムの運動に身をまかせながらそれを内部から撹乱しようと企てる。そうすることによって、すべての権力機構からの逃走を企てる<ノマドジー(遊牧論)>のうちに残されたただ一つの希望を見ようとするのである。≫

 この一節にもっともワクワクした。

 ネットの拾いもの。男と女の間には埋めがたい隔たりがある。

≪男が浮気

 男「ごめん」

 女が浮気

 女「だってあなたが冷たいからいけないのよ」≫

≪「自分勝手」と入力したら「女」に変換された≫

≪「節約術」

 嫁がいないのが一番の節約≫

 男と女はかくも違うのはどこの国でも同じようだ。で、思い出した。夫婦喧嘩を傍観していた子の話。父が母に向かって「ばかもの!」というのを間違えて「ばけもの!」と言った。その後の母の形相……。きのうの遊園地のよう。