降ったり止んだり。のんびり過ごす。昨日話題にあげた『 ジャック・ルーボーの極私的東京案内』水声社の若島正・評から再び。
《 ルーボーが初めて日本にやってきたときに東京で書いた詩を中心にした『極私的東京案内』も、日本語とフランス語と英語が偶然の珍妙な出会いをする場になる。たとえば、「あわれ」という言葉を取り上げて、それをローマ字で「aware」と書いたとき、その字面は英語の「アウェア(気づいて)」という言葉を一緒に連れてくる。そこにルーボーは、「あわれ」を文体上で実践するときに必要な「注意と集中力」を読み取るのである。》
別の紙面の丸谷才一『樹液そして果実』集英社の三浦雅士・評から。
《 モダニズムとは不易流行の自覚である。この自覚なしに「もののあはれ」もまたありえなかった。なぜなら「もの」とは「きびしい現実、運命、定め」のことであり、それを前にしての哀愁が「あはれ」だからだ。「もののあはれを知る」とはその情趣を解することにほかならない。著者のこの指摘は、いわゆるポストモダンが「もののあはれを知る」基盤そのものを失ったところに成立したのではないかという危惧を示している。》
「あわれ」と「あはれ」。この「わ」と「は」の違いはけっこう大きいようだ。
心なき身にもあはれは知られけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
あれえ?
エラリー・クイーン『Yの悲劇』新潮文庫1984年47刷を読んだ。このミステリ史上の最高傑作は、じつは初読。ずっと昔、犯人を聞いてしまったので、読む気が失せていた。明日へ続く。