日本の風景・西欧の景観

 きょうも口コミで来館される方が何人も。味わいのある絵ですねえ、と画集を購入される。存在感のあるですねえ、と画集を購入される。

 オギュスタン・ベルク『日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代』講談社現代新書1994年5刷を読んだ。目を開かれる知見がちりばめられていて、じつに興味深い。

《 つまり風景は現実の事物に関する情報と、もっぱら人間の脳によって練り上げられる情報の両方で構成されているのである。》45頁

《 すなわち人々は所属する社会環境に応じて、同じ風景を異なる形で知覚するということである。》48頁

 連想したのが先月28日の毎日新聞に載った椎名誠の講演。

《 私は何度もモンゴルに行っている。日本の4倍の面積を持つ草原の国で、夏には大量の花が咲く。だが、遊牧民の財産は花を食べない家畜。羊を世話する遊牧民は草に興味を示すが、花は「余分なもの」で目もくれない。/同様にネパールでは満天の素晴らしい星が見られるが、シェルパ族には興味の対象外。私だけが夜空を見上げ、独りで感動していた(笑)。》

《 それまでヨーロッパの絵画では、風景は物語のなかの人物に隷属する背景にすぎなかった。》54頁

《 風景の観念はこうしてルネサンス期のヨーロッパに現れたのだが、これは近代の主体の出現と相関関係にある。つまり自己とそれをとりまく環境を区別し、その間に距離を設ける主体の出現との相関である。事実一方では、絵画における風景画の発展と、いわゆる線的ないし古典的な遠近法の完成の間に時期の符合が見られ、また他方では、このプロセスと、当時の思想潮流において近代的な主体が徐々に確立されていったプロセスの間に、深い類比関係が感じられるのである。》 54頁

《 風景の対象化すなわち近代景観の成立のプロセスはルネサンスの画家たちから始まったが、そのプロセスの最終的な表現が現われるのは、後に見るように、逆説的ながら、絵画が一方では線的遠近法を早くも解体し始め、他方では主体の近代的な観念が哲学や社会科学において揺り動かされ始める時期のことである。》57頁

《 明治の日本が西欧の景観を発見したのはこの歴史的な時期であり、その頃西欧の景観の表現は最も完成された段階に達していた。けれども逆説的なことにその時すでに基盤を揺るがすような危機の最初の兆候が現れていたのだった。》58 頁

 以下、明日へ続く。

 ネットの見つけもの。

《 私は「科学者や技術者は作品をショーウィンドウに飾るのにとどめるべきだ。その作品を使うかどうかは社会が決める」という考えになったのです。ただ、作品をショーウィンドウに飾るときに「ウソの説明を書かない」ということが第一に必要です。たとえば原発ですと、原発が良いか悪いかは判断せずに、ショーウィンドウに飾り、説明書に「この原発震度6ではほとんどの場合、破壊され、30年ごとに1回ぐらいは大爆発します」と書くということです。》