休館日/感覚の幽(くら)い風景・続き

 いつもの起床時間に目が覚めるけど、休日なのでまた目を閉じる。一時間ほどして目覚め。蒲団のなかでぐずぐずしているのは心地よいが、すぐ飽きてしまい、起きる。

 鷲田清一『感覚の幽い風景』中公文庫の後半は前半の掴みがたさとは打って変わって読みやすい。前半は哲学者エマニュエル・レヴィナスからの影響を感じたが、後半は服飾、モードがらみ、鷲田の得意分野(?)か、文章がなめらか。

《 わたしたちはまるで感冒にかかったように、つねに「新しい」スタイルによって煽られ、意識を拉致されるのだが、この「新しさ」は意味の新しさではない。それは、いま流通しているものとは異なるという、形式の新しさである。》「うつろい」

《 みずからの神経をモードのそれで編みなおした消費者にとって、欲望は感じる以前にまずは煽られるものである。》「うつろい」

《 「帰っておいで」という声がするのにもう帰れない、そういう痛みをともなった引き剥がしをいやでも思い起こさせるものとして、乳房は男たちの前に現れる、遂げられぬがゆえによけい渇くような、憧れと憎しみとがないまぜになったような「分離の形象」(松浦寿輝)として、乳房は現れるのだ。》「やつし」

 これになるとよくワカラン。

《 では、女性にとっての他人の乳房、あるいは女性のじぶんにとってのじぶんの乳房とは、どういう存在なのか。これはわたしにはまだ手に負えない問題でありつづけている。》「やつし」

 正直な人だ。「幽」つながりで、次は松浦寿輝の小説「幽(かすか)」を読むか。