閑人亭日録

『意味がない無意味』六

 千葉雅也『意味がない無意味』河出書房新社2018年初版、「 IV 言語」を読んだ。
  言語、形骸、倒錯──松浦寿輝『明治の表象空間』
  批判から遠く離れて──ニ◯一◯年代のツイッター
  緊張したゆるみを持つ言説のために
  此性を持つ無──メイヤスーから九鬼周造
 の四篇からなる。それぞれに著者ならではと言える論述があり、感心したり、考え込んだり。考えたからといってすぐにも自分なりの応答ができるわけでなし、まずは 沈潜させておき、「?」への応答がいつか不意に浮上するまで放置しておく。

 朝、昨日に続いて自宅裏の蓮馨寺のお墓横の源兵衛川で茶碗のカケラやガラス片を拾う。作業予定のゴミはほぼ回収。帰宅。いつもより長く一時間ほどの作業。汗~。 パンツだけになる。気持ち良い。コーヒーを淹れる。美味い。
 昼前、本屋で佐藤康宏『絵は語り始めるだろうか  日本美術史を創る』羽鳥書店2018年初版帯付を受けとる。本文900頁超。重い。が、目次に早、ワクワクする。 「後記」から。

《 できれば私自身の覚醒と、日本美術史を創(きず)つけ創ろうとしたはずの波風がどこかへ運ばれるのを願って、この本を刊行する。 》 904頁

 去年観た東京国立博物館の「名作誕生 つながる日本美術」展の図録に掲載の佐藤康宏「つなげて見る──「名作誕生」展案内」から。

《 造形の歴史においてはしばしば何かを表わすための決定的な形というものが現れ、それは自らに従うよう、のちの作り手たちを誘惑する。(中略)結局、美術史を 織り成すのは巨匠たちではなく、このような現象そのものなのだという見方を広めたいわけである。 》 25頁

 ジョージ・クブラー『時のかたち』鹿島出版会2018年初版につながる。帯の文から。

《 事物に従って生み出される、事物による事物の歴史。 》 岡崎乾二郎

 午後、知人の車に友だちと同乗。熱海のMOA美術館へ。なぜかやたら若い人が多い。喜ばしいことだけど不思議。時代が変わったか。
 東京新聞、文化欄、鷲田清一「小さな肯定」が読ませる。

《 〈反〉という抵抗を試みようにも、社会のほうがすでに鬆(す)のようにすかすかになっていると感じるのか。あるいは〈反〉という次元での抵抗など無効でしか ないとすでに思い定めたのか。いずれにせよ、〈社会〉の底が抜けはじめたという思いが日々深くなっている、と。 》

《 だが、「黙って」消えるところ、「見限って」場所を変えるところには、〈大きな否定〉ではなく〈小さな肯定〉をもういちどゼロから積み上げてゆこうとの 思いもまた生まれつつあるのではないか。 》

《 底の抜けた社会を自前で再建してゆくその一歩なのだとおもう。(中略)そのなかで、信頼、助けあい、おつきあい、憐れみ、共感といった古い「徳目」が、 これまでとは違う感覚で模索されているのかなとおもう。 》

 社会の底が2018年に抜け、そこから反転するのが2019年だ、と私は直感し、人に話している。先だって友だちがカワニナを採取して「楽しかった」と言うことも、 私が元気なうちに川底の茶碗のカケラ、ガラス片を拾い取ってしまおうと動き出したのも、時代の変化の一端なのかもしれない。

 ネット、うろうろ。

《 RT 90年代~ゼロ年代は「戦後的な無風空間」だったんだろうか。むしろ「歴史(大きな物語)が終わった」後の「ポストモダン」のすべてがフラットで等価で 選択自由であるかのように思えた特殊な宙づり空間だったように思う。でもその「遊び」が徹底されて既存の文脈を破壊し尽くすことはできなかった。 》 大野左紀子
 https://twitter.com/anatatachi_ohno/status/1098914298888253441

《 「「戦後」的な無風空間」の残滓」でした。でも70?80年代の記憶から比較すると、90年代?はやはり冷戦時代とは違っていた。「創造」に替わり「再編集」が クリエイティブとなった。シミュレーショニズムも。そこに圧倒的なマテリアルの世界が突きつけられたのが3.11で。そこで一気に萎縮した感がある。 》 大野左紀子
 https://twitter.com/anatatachi_ohno/status/1098917481018576896

《 反安倍の方の多くは「安倍政権の支持者など本当は少数、いずれ倒せる」と考えているようですが、私はそんなに甘くないとも思ってます。安倍政権を見ていると、 普通の日本人男性の醜い本音が一番象徴的に現れていると思います。あの政権と向き合うことは、私たち自身の醜さと向き合うことでもあるのです 》 なうちゃん
 https://twitter.com/nauchan0626/status/1098910627848830977