ほんの傍らにあるのに、まるで気づかないことがある。昨夜、はっと気づいたこと。味戸作品の コメント頁で紹介している一行。
《 「味戸ケイコの絵はほんとうに生命の傍らで描かれている。」》 椹木野衣(さわらぎ・のい)
心にぐっときた。生命に向いて生命を描くのではなく、生命の傍らで描いているのだ。
《 ふるえる手の転び方では死とも生とも受け取れる両義の絵を彼女は残すのだ。》
幽明をまたぐ絵……。中沢新一『はじまりのレーニン』岩波現代文庫にこんなくだりがあった。
《 「有」を語るヘラクレイトスのことばには、特有の「かそけさ」がある。ところが、ヘーゲルのような近代哲学の語る「有」には、そういう「かそけさ」にたいする鈍感さや無感動な強さが感じられて、レーニンはちょっと嫌な気持ちになってしまったのだ。》「第4章 はじまりの弁証法」
かそけさ。手元の『大辞林 第二版』三省堂1995年には「かそけさ」はなく、「かそけし」がある。「幽し」と書き、《 かすかである。淡い。》とある。『新 漢語林』大修館書店1994年には「幽」は字義として《 くらい かすか 》等がある。他の辞書には「かそけさ」は「かそけし」の名詞形とある。意味深なことばだ。味戸さんの絵は暗いと言われる。それは違う、といつも言うのだが、それは「かそけさ(幽けさ)」にある絵なのだ。
鷲田清一(きよかず)『感覚の幽(くら)い風景』中公文庫2011年初版を読んだ。
《 最近、ある建築家のこんな嘆きを耳にした。パソコンのCAD(コンピュータ利用設計システム)による製図が家をだめにするというのだ。(引用者:略)それはからだの震えを介さず、平行線だとか楕円形だとかベージュ色といった記号を介して線を引く。そこからすっぽり抜けるのは、線を引くというひとつの行為のなかに巻き込まれてくるはずのからだのさまざまな部位の感覚である。その行為のなかで身体のさまざまな感覚が重層的に折り重なってくるという出来事が、そこでは起こらないのである。そういうふうにして設計された建物には、だから佇まいというものがない。匂いたつものも、迫りくるものもない。》「ふるえ」
昨日話題にした味戸さんの風景画。それへのヒントがこの本にある。
《 ここで外転とは「生体が刺戟のほうへ向かい、世界によって引き寄せられる」ことを意味し、逆に内転とは「生体が刺戟から遠ざかって、おのれの中心のほうへ引きこもる」ことを意味する。》「まさぐり」
《 外に向かっておのれを開いてゆくことと内に向かっておのれを閉じてゆくこと、と言いかえてもよい。》「まさぐり」
味戸さんの風景画を観るときには、内転と外転が同時に起きているのだ。観るほうにはそう感じる。ありえないようなことだけど。
《 対象を探りにゆくという能動性、そう聴診のように、対象の様態を慎重に確かめる、あるいは対象をそのままいただくというような、外物への強い関心のなかでこそ、触れるという出来事は起こるのだ。》「まさぐり」
《 触診、聴診のみならず、見ることもまたすぐれて世界をまさぐるという行為なのだろう。》「縁(へり)」
ブックオフ長泉店で三冊。中井英夫『虚無への供物(上・下)』講談社文庫2004年初版、相沢沙呼ほか『放課後探偵団』創元推理文庫2010年初版、計315円。前者は贈呈用。
ネットのうなずき。
《 何かをするつもりで部屋を出て、何をするのか忘れて戻る。
何かを検索するつもりでブラウザを立ち上げて何を調べるつもりだったか忘れてる。
調べるつもりだったことすら忘れて普通にニュースサイトとかを見る。
←後々、調べるつもりだったことを思い出して気づく。》