松浦寿輝『幽(かすか)』講談社1999年初版を読んだ。江戸川のほとりで借家住まいをしている四十代の無職の独り者の隠遁生活のような日常が描かれている。冒頭一行。
《 川のそばに寝起きしていいのは朝な夕なに水の匂いを嗅げることだった。》
《 とりとめのない街歩きで日々の時間を費消したがこの頃よく感じるのは何かいたるところで光や影が徐々に寄り集まり様々なかたちにしこってゆくようだということだった。》
日和下駄か。
《 幽明境を異にするなどと言うが、たぶんこの家はその幽と明の間の境界そのものなのだろう。》
泉鏡花か。
《 こうしてついと手を伸ばせばこの美しい女に触れられるのだと思うとやはり月と孤独に向かい合っているよりはこちらの方がいいようだった。》
だれでも同じ。
《 一人だろうと二人だろうと何人でいようとこの世のきわで幽(かすか)に身を持て余していることの淋しさはいささかも減じはしない。》
《 このところ生きていることのリズムが遅くなってそれで今まで見えなかったものがだんだんと見えるようになってきたように思う。》
《 光と影がしこった透明な織物になり匿名の幽霊になって 》
《 まなざしが逸れたとたんにぼうっと半透明になってしまうようだった。》
最後の頁から。
《 人影もぼうっと白く霞む幽(あえか)な染みのようにしか見えなくなっている。》
幽、かすか、あえかという言葉を巡る小説か。読点「、」がじつに少ないのも、幽を巡るためか。
彼の小説『半島』文春文庫2007年初版の表紙には「デンマークの画家ヴィルヘルム・ハメルショイ(1864-1916)」の「背を向けた若い女のいる室内」が使われている。 Vilhelm Hammershoi 。『芸術新潮』1998年8月号の記事にはグッゲンハイム美術館で催された「ヴィルヘルム・ハマーソー展」。この表紙絵に惹かれて数年前、東京西洋美術館で催された「ハンマースホイ」展へ行った。この絵を含む二十世紀初頭の五年間に飛び抜けて良い作品が集中していた。
毎日新聞昨夕刊にはこんな記事。
《 詩人・小説家として活躍する松浦寿輝さん(57)が3月末で東大教授を退職することになり、このほど東京・本郷の東京大文学部で記念講演を行った。》
《波打ち際という「陸と海のあわいにある空間」の魅力を語った。「波の緩急のリズムや、ぬれた砂が砕けていく心もとなさ、よるべなさの感覚は、私の感性の中核を決定している」。》
某美術館の学芸員から四月に催す牧村慶子展の問い合わせ。風が吹いてきた。