翻訳と日本の近代

 昨夕帰りがけにブックオフ長泉店で二冊。藤田宜永(よしなが)『壁画修復師』講談社文庫2009年初版、『ミステリー傑作選 Dout きりのない疑惑』講談社文庫2011年初版、計210円。前者、新潮文庫を買いそこねていたら、講談社文庫で再刊。活字が大きくなった。

 丸山真男加藤周一『翻訳と日本の近代』岩波新書1998年初版を読んだ。年下の加藤が丸山に訊くというかたちの対談。膨大な知識の海から、あっと驚く新鮮な解析が次々と展開される。これはすごい。

《 加藤 両方ね。尊皇攘夷を本気で信じていて西南戦争までつながるような人々と、テクノクラートの先祖みたいなもので、イデオロギーを交換可能な道具と考えていた人々と。 》17頁

《 丸山 進化論の影響を受けたかどうかが、中江兆民と福沢の決定的なちがいだと思うのです。兆民においては決定的です。「進化神」が出てくるでしょう。福沢のは進歩の思想なんだね。二人をくらべると進化の思想と進歩の思想の違いがよく出ている。進歩の思想は一八世紀であり、進化は一九世紀の後半にはじめて出てくる。進歩はいいものに決まっているけど、進化はいいとは決まっていない。 》154頁

《 丸山 士農工商の支配の基礎づけも、江戸中期からは有機体の構造と同一視するのでね、細胞と同じように相互依存的なものとして。だから、生物学的なモデルのほうが入りやすい。ところがまったくの無機的な自然、ニュートン力学の自然は、日本の自然観にないわけです。主観と客観を完全に対立させて、あらゆる意味性とか価値性を剥奪して見る見方は、日本思想史の文脈では仏教にも儒教にもない。神道にはなおさら、ない。 》160頁

 最近出た翻訳本についてネットの書き込み『これじゃスタイナーも浮かばれまい』から。

《 やれやれ。なにが悲しゅうてこんな支離滅裂な文章に付き合わねばならんのか。(略)固有名詞のでたらめさといったら枚挙に暇がない。レオナルド・スカシア(シャーシャ)、クララ・ゼトキン(ツェトキン)、ウイリアム・ガス(ギャス)、アイザック・バーベリ(イサク)、フェルナン・ブラウデル(ブローデル)、エリザベス・ケーブラー‐ ロス(キューブラー=ロスまたはキューブラー・ロス)、チーコゥ・ブラーエ(3頁後ではティコーとなっているが、ティコが妥当)、ヴァージル(ウェルギリウス)、マルゲリート・ユルセナールは許せないでしょう、さすがに。 》

 老婆心から一言。マルグリット・ユルスナールのこと。

 ネットの見聞。

《 単に子どものような絵を描けるだけの人と、子どものような絵であるのに感動を与えてくれる人の、どこが決定的に違うのだろう。 》

 ある程度時が経てば、食べ物の発酵と腐敗のように、味わい深くなるか、つまらなくなるか、分かれるだろう。味戸ケイコさんの鉛筆画は、四十年近く経ても素晴らしい。魅力が増している。

《 どんなに素晴らしいものでも伝えない事にはしょうがないだろう? 》

 その考えでK美術館を開いた。閉館まであと半年。

 ネットの拾いもの。

《 「死ぬ気でやれ!死ぬ気になれば10回に1回くらいは勝てる!」という野次が9連敗中のヤクルトに飛んでいる。 》