俳句とは何か

 朝、テレビ局の源兵衛川の取材に案内役で出演。一昨日の夕方代役を頼まれた。普段着ているものでは、いかんせんみっともない、と周囲から言われ、子どもがそのまま大人になったような格好を、とリクエスト。中身はまんまじゃん。一昨日の晩と昨日で足元のサンダルから帽子まで誂える。夏物バーゲンセール中で安くていいけど、なかなか似合う衣料がなく、イトーヨーカドー、青山、ユニクロを回る。ふう。青山なんか初めて入った。自慢することではないか。注文どおりの服装。午後三時前録画終了。やれやれ。

 小林恭二・選『俳句とは何か』福武文庫1989年初版を読んだ。左右両翼の論を対比させたユニークな選集だ。山本健吉「現代俳句」に塚本邦雄「百句燦燦」という俳句鑑賞、高浜虚子「虚子俳話」に高柳重信「偽前衛派」、尾崎放哉「入庵雑記」に富澤赤黄男「雄鶏日記」。この対比では、私の好みは後者。永田耕衣「山林的人間」、安藤次男「『澱河歌』の周辺』、坪内稔典(としのり)「俳句は可能か」の三者鼎立、そして西東三鬼(さいとう・さんき)「神戸」と小林恭二「新鋭俳人の句会を実況大中継する」。抄録でコンパクトにまとまっているけれど、どれも読み応え十分。鋭く考えさせる。

《 だからこの作品のレアリティを支えるものは、外界ではなく、外界に触れて発する作者の側の発見の驚異であり、ものの根源まで見透す作者の心眼であり、思想である。 》 「現代俳句」

《 通俗的俳諧的美文に拮抗できるのは決して思ひつきの悪文の論理ではない。新しい価値観によつて再誕した言葉の秩序のみである。 》 「百句燦燦」

《 問題は、真に精神の酷烈さを求めようとすることにあるのか、酷烈という言葉を酷烈らしく振りまわすことによって、酷烈だと思い込んでしまうのか、その辺、なかなか簡単に信じるわけにはゆかぬ。 》 「雄鶏日記」

《 道元は「いはゆる水をみるに瓔珞(ようらく)とみるものあり」という詩情らしい詩情行の中に、「古仏いはく山是山、水是水。この道取は、山是山といふにあらず、山是山といふなり」(道元正法眼蔵山水経』)と結語している。未熟な心解を示せば、「山を山の姿形だけで山というな。山の存在の根源(カオス)において見究めよ。その見究めがつけば、山をその山の姿形だけで山といっていい」といったようなことになろうか。それ以上分らぬし、これだけ分れば、曲解でもりっぱではあるまおか。そういうことにしておきたい。 》 「山林的人間」

 玉城康四郎・訳『正法眼蔵山水経』大蔵出版1995年2刷から。

《 古仏がいうに、
   「山は是れ山、水は是れ水なり」と。
  この発言は、山は、凡眼の見たとおりの山というのではない。慧眼の見たとおりの山というのである。そういうわけであるから、山を学び究むべきである。山を学び究むれば、山そのものがおのずから修行となっている。このような山水が、おのずから賢人となり、聖人となるのである。 》

 ネットの見聞。

《 「良い」「とても良い」「おもしろい」「すごくおもしろい」「とても魅力的」「興味深い」 》

 個展紹介の表題から。佳作、秀作、傑作の文字はない。

《 新人賞の応募原稿ってね、素人なんだから若干の矛盾とか粗さとかあってもいいのよあって当然なのよ。そういうのはいくらでも訓練できるのよ。大事なのは「この人じゃなきゃ出せない魅力や特徴」みたいな突き抜けたものがあるかどうかなの。選考担当者は作品単体じゃなくて資質を見てるのです。 》 大矢博子