『道草』

 やっと晴天。大物を洗濯。朝から年配者の一団がスタスタと源兵衛川を下ってゆく。景色を楽しむという姿は微塵も無い。目的地目指して人に遅れまいと一心不乱の歩き。昼には大通りで六百人を超える親子のハロウィーン仮装行列。なんやかやと賑やか。

 夏目漱石『道草』を『漱石全集 第十巻 道草』岩波書店1994年初版で読んだ。こういう立派な本で読むと「読んだ」という実感が湧く。

 それにしても陰鬱な小説だ。夫婦間のすれ違いと言い争い、肉親の難題、知人たちとの不興。すべての底にある栄枯盛衰、金銭問題。

《 「もう少し御金を取つて呉れると好いんだけどもね」 》

《 「そんなに窮(こま)つてゐるのかななあ」
  「えゝ。もう何(ど)うする事も出来ないんですつて」 》

《 要点はたゞ其の人が金を貸してくれるか、呉れないかの問題にあつた。 》

《 二人は二人同志で軽蔑し合った。 》

《 実父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなかつた。寧ろ物品であった。たゞ実父が我楽多として彼を取り扱ったのに対して、養父には今に何かの役にたてゝ遣らうといふ目算がある丈であつた。 》

 これを読んだのは、21、22日に取りあげた上田閑照『私とは何か』で言及されていたから。

《 まさに問題中の問題である自・他の問題について新しい境位が『道草』において開かれているように思われるので、『道草』を通ってゆきたい。 》 185頁

 五ページほどにわたって論じられている『道草』の解釈に、一般人の私はへえ〜。『漱石全集』月報で奥野健男は書いている。

《 『道草』を読んで、日本の自然主義文学より、私小説より、もっとリアリティのある深層的リアリズムの心理小説であることに感歎した。 》

 新聞連載小説『道草』を当時の一般読者はどんなふうに受け止めたのだろう。こういうこと「あるある」、こういう人「いるいる」と思ったんじゃないかな。連想したのが、川端康成『山の音』、吉田修一『悪人』。『道草』の方法論を踏襲している気がした。といって再読、検証する気はないが。それにしても『道草』という題にはどんな含意があるのだろう。自転車で道草をしたくなった。

 道草をせずブックオフ長泉店へ。ウンベルト・エーコフーコーの振り子(上・下)』文藝春秋1994年8刷帯付、1995年6刷帯付、有川浩(ひろ)『図書館内乱』メディアワークス2006年初版帯付、計315円。どれも新品同様。先だって買ったエーコ薔薇の名前(上・下)』東京創元社1990年初版帯付は、知人に贈呈済み。

 本屋で雑誌『ユリイカ』の「やなせたかし」特集号を手にする。斬新な視点、目新しい論点は見当たらない。棚へ返す。

 段ボール箱に仕舞いこんであった、文庫版ハードカバーのサンリオ・ギフトブックを床に並べてみる。キャラクターものは除いて、詩集関連だけ八十冊あまりを並べる。やなせたかし、味戸ケイコから寺山修司萩原朔美永六輔中山千夏など多彩な書き手。大部分がオールカラーだけれど、1975年、アンデルセン・文/味戸ケイコ・絵で始まった二十数冊は、他が本文五十ページ以下だったのにたいし、百ページを超える厚さで、本文の挿絵は白黒のみ。製本所によって花ぎれが付いたり付かなかったり。この二十数冊が好き。表紙の統一されたフォーマットも気持ちよい。このシリーズを手にすると、他のギフトブックがつまらなく見える。全部がそうではなく、内藤ルネや味戸ケイコさんの本はいい出来。

 ネットの見聞。

《 例の食材擬装のリッツカールトン大阪のメインダイニングって、ミシュランで星とってたんだな。これは凄い。ふたつの意味で凄い。何より、東南アジアの沼地の養殖場でつくった訳の分からんエビと車海老の区別のつかないミシュランが凄い。次にミシュランの鑑定員を騙した阪急阪神ホテルグループが凄い。 》 矢作俊彦